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ソ連の非情なやり口に翻弄された北方領土の歴史 スターリンは北海道北部の占領も計画していた

2018-11-30 | アイヌ民族関連
日経ビジネス 2018年11月29日(木)茂木 誠
ある日の国後島(写真:ロイター/アフロ)
 ウラジオストクでの安倍・プーチン会談で、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は日ロ平和条約の締結を促した。これに応える形で安倍晋三首相は、「戦後70年以上残されてきた課題を次世代に先送りせず、私とプーチン大統領との間で終止符を打つ」と発言。また、引き渡し後の歯舞・色丹(はぼまい・しこたん)には米軍基地を置かないことをプーチン大統領に伝えていたと朝日新聞が報じた。この報道が正しければ、北方領土問題で米軍基地との関係に日本の首相がはじめて言及したことになる。
「北方四島は固有の領土」という魔法の言葉
 そもそも「固有の領土」とは何だろうか?
 モンゴル帝国の属領だったロシアが独立を宣言したのは15世紀末、日本では応仁の乱で室町幕府が事実上崩壊した頃である。当時のロシアは「モスクワ大公(たいこう)国」と称し、モスクワの周囲を治めるだけの小国だった。モンゴルの騎馬戦法に学んだコサック騎兵を採用したロシアは、逆にモンゴル帝国を蚕食して領土を拡大し、無数の少数民族を併呑して日本海に到達した。アメリカ合衆国が先住民を「討伐」しながら西部開拓を進めたように、ロシアのコサック騎兵も「東部開拓」を進めた結果、巨大帝国が出現したのだ。
 国力が充実すれば拡大し、衰退すれば縮小する。ロシア人にとって領土とはそのようなものであり、「固有の領土」などという概念はない。
 日本(ヤマト)国家の成立は遅くとも5世紀であり、その領土は九州から朝鮮半島南部、関東平野にまで及んでいたことが、中国の史書に残る「倭王武(雄略天皇)の上奏文」から推測できる。南九州は「隼人(ハヤト)」、東北地方は「蝦夷(エミシ)」と呼ばれる異民族の世界であった。
 日本も「北部開拓」を進めてきた。古くは平安時代のはじめ、坂上田村麻呂の蝦夷遠征に始まり、中世には十三湊(とさみなと)を拠点とする安東氏が蝦夷地開拓を行い、江戸時代には松前藩がこれを引き継いだ。
 蝦夷地と呼ばれた北海道、樺太、千島列島の先住民はロシア人でも日本人でもなく、アイヌやツングース系の諸民族(ギリヤーク、ウィルタ)である。そこに西からロシア人、南から日本人が入植し、ロシアと日本が領土を争うようになったというのが歴史の真実だ。
 北方四島どころか北海道までも「日本固有の領土」なのかどうか疑わしい。琉球王国として中国皇帝から冊封(さくほう)を受けていた沖縄は一体どうなるのか。
 「北方四島は固有の領土」という魔法の言葉、歴史的根拠に乏しいファンタジーが、日本人の合理的判断力を鈍らせていると私は考える。領土問題は純粋に国益を利するかどうかで論じられるべきだ。
 名君として知られるローマ皇帝ハドリアヌスは、イラン人との係争地であった東方の広大な領土を手放すという英断を下した。そこから得られる税収より、ローマ軍の駐屯に要する軍事費のほうが割高になっていたからだ。
北海道まで狙っていたスターリン
 江戸幕府と帝政ロシアとの間で国境線が確定したのはペリー来航後の1858年、日露和親条約である。択捉(エトロフ)・国後(クナシリ)のアイヌは江戸時代から松前藩に臣従していたので、ロシアも彼らを「日本人」とみなした。得撫(ウルップ島)以北の18島はいったんロシア領とされたが、樺太に触手を伸ばしたロシアは、樺太全島を併合する代わりに北千島を日本に割譲する樺太・千島交換条約(1875)を明治政府と結んだ。面積では圧倒的にロシアが有利だったが、北海道開拓で手一杯の明治政府は樺太防衛にまで手が回らず、開拓使長官・黒田清隆の英断により、樺太の領有権を放棄した。
 この間、ロシアは英仏の中国侵略(1853~56年、アロー戦争)に乗じてウスリー江以東の沿海州を清朝から奪って併合し、日本海沿岸に軍港ウラジオストクを建設している。
 日露戦争でも両国は樺太領有権を争い、ポーツマス会議で南樺太が日本領となった。
 第二次世界大戦で日本は対米戦争に専念するため、ソ連(共産主義ロシア)のスターリンと日ソ中立条約を結んだ。大戦末期、米軍による本土空襲に苦しむ日本は、ソ連に米国との和平の仲介を依頼した。
 この時スターリンは、日ソ中立条約を破って対日参戦し、ソ連軍が満州と南樺太・千島全島・北方四島を占領した。日露戦争で争った南樺太はともかく、千島列島は帝政ロシアとの交換条約で日本が獲得した領土である。それどころかスターリンは北海道北部の占領も計画していたが、米国の反対に遭い断念した。
 ロシア軍はモンゴル時代からの「作法」に従い、占領地では徹底的な略奪を行い、婦女子を暴行した。生き残った男子は極寒のシベリアへ抑留され、強制労働を課されて10%が死んだ。この明白な戦争犯罪について東京裁判は黙殺し、スターリンとその手下は裁かれなかった。「戦勝国無罪」である。
欧州にも残った国境問題
 1991年にソ連を継承したロシア政府も「現在の国境線は第二次世界大戦の結果であるから、変更できない」という立場を堅持している。この場合の「国境線」とは日本との国境だけにとどまらない。スターリンはポーランド東部やバルト3国をも併合しているからだ。
 ソ連(ロシア)は、第二次世界大戦で領土を拡張した唯一の国である。獲得した領土は、南樺太・千島列島にとどまらない。
 ポーランドは中世以来、東部国境をめぐって長くロシアと争ってきた。第二次世界大戦の直前、スターリンは宿敵ヒトラーと協議し、ポーランドを東西に分割し、その東半分とバルト3国はソ連が併合するという密約(独ソ不可侵条約の秘密議定書)を結んだ。ドイツ軍の侵攻を受けて防戦に苦しむポーランド軍に対し、ソ連軍が背後から襲いかかってポーランドを滅ぼし、分割占領した。このように、苦境に立つ隣国に対し、後ろから殴りかかるというのが、ロシアの伝統芸だ。だからロシアに対しては、決して背中を見せてはならない。
 大戦末期には逆にソ連軍がポーランド全土を占領し、共産党政権を樹立した。スターリンはポーランド共産党政権に対し、「戦後の国境線を認めろ」と命令した。この場合の国境線とは、独ソ不可侵条約でスターリンとヒトラーが決めた国境線のことである。
 ポーランドの反発をやわらげるため、スターリンは策を弄した。敗戦国ドイツの東部を削り取り、ポーランドに与えたのだ。このドイツ版「東方領土」は東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンの3カ所で、なかでも東プロイセンはドイツの母体となったプロイセン公国発祥の地である。
 これらの地域に住んでいた千数百万人のドイツ人は、祖先から受け継いだ全財産をソ連軍によって没収され、新たな国境とされたオーデル・ナイセ線の西へ放逐された。ソ連軍は占領下のドイツ東部にも共産党政権を樹立し、国境の変更を認めさせた。
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