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「北方領土 択捉島の歴史を訪ねて」(くらし☆解説)

2017-09-02 | アイヌ民族関連
NHK2017年08月31日 (木)
石川 一洋  解説委員
日本の固有の領土、北方領土がソビエトに占領されてから72年が経ちます。日ロ間では今、新しい発想のアプローチに基づく共同経済活動の具体化が話し合われています。この夏、ビザ無し訪問では択捉島の歴史に深い思い入れを持つ元島民の方々が訪れました。石川解説委員に聞きます。
Q.択捉島の歴史と言いますと?
A.この夏、7月に私も元島民の方々とビザ無し訪問の団員として島を訪問しました。
きょう8月の終わりというのは択捉島など北方四島にとっては重い苦い歴史を思い出させます。8月28日、ソビエト軍は、択捉島に突然上陸しました。終戦から2週間が過ぎた日々で誰もがもう戦争は終わったと思っていました。ソビエト軍は択捉島に来て、それからアメリカ軍がいないことを確かめて9月4日にかけて歯舞群島までを占領しました。
元島民で、択捉島で生まれた鈴木咲子さんは次のように話しています。
「普段は着飾っていた若い女性が顔に墨を塗り、頭を坊主にして男のような格好をしていたことを覚えています」
Q.重い歴史ですね、択捉島はどんな島なのですか。
A.択捉島というのは沖縄本島の二倍以上もある日本で最大の島であり、かつて三つの村がある、大きな漁業の島でした。今回の訪問団には鈴木咲子さんら択捉島と関わりの深い方々が参加し、その一人が択捉島の元島民三世の駒井康次さんです。実は駒井家は明治以来択捉島の北部の漁場を仕切ってきた網元で、択捉島の開拓と深く関わった家柄でした。
択捉島など北方四島は元々北海道と同じくアイヌの人々が住んでいました。日本人による開拓は、司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」で描かれたように、豪商・高田屋嘉兵衛が、18世紀末、難所として知られた国後島と択捉島の間の海峡・国後水道の潮の流れを読みきり、択捉島に渡る航路を開いて、本格的に始まりました。
嘉兵衛は島に漁場を開拓し、サケマスなどで島は栄えました。高田屋が没落した後、明治にかけて択捉島の開拓にあたったのが駒井家なのです。
「この人が初代の駒井弥兵衛、択捉の北部の蕊取という村にお墓があるのです。」
Q.択捉島の歴史と深く結びついた家なのですね
A.そうです。私や駒井さんは択捉島で島の歴史博物館を訪れました。
島で択捉島の歴史がどのように説明されているのか、注目しました。まず石器や土器が展示されていました。この石器は駒井さんの興味を引きました。実は駒井さんの家にも祖父が択捉島で収集したという石器のコレクションが残されています。その石器と歴史博物館の石器が同じ種類のものだったからです。
「専門家に聞いたらこれは青森などで発掘される石器と同じ種類のものだということです」
歴史博物館でもこの島は縄文や北海道の察文時代と結びつき、日本人よりも先にもともとはアイヌの人々が住んでいたことも説明されていました。また終戦までは日本人が住んでいたことも展示されていました。ところがその博物館ですっぽりと抜け落ちていた部分がありました。まさに江戸時代、高田屋嘉兵衛から駒井家の初代にかけて日本人による択捉島の開拓の歴史の部分が展示されておらず、あたかもロシア人が先に択捉島の開拓をしたような展示になっていたのです。
駒井さん「多分そこのところは都合が悪いのでしょうね アイヌの文化からいきなりロシア人に飛んでいる。」
Q.駒井さんの祖先の方々が苦労して開拓した跡というものはもう残っていないのでしょうか。
A. そもそも択捉島には日本人が住んでいた建物がほとんど無くなっています。駒井家とも関わりの深い大日本水産会の建物や紗那の郵便局の建物もここ数年で老朽化などを理由として壊されてしまいました。今は、小学校だった建物が残っているだけです。その建物も老朽化が年々進んでいます。ただ島では思わぬ出会いもありました。
Q.どんな出会いですか?
A.ロシア人の家庭を訪問したときのことです。私と駒井さんは同じグループで、島にもう40年近く住むロシア人の夫婦の家を訪ねました。セルゲイさんとリンマさん夫婦はソビエト時代の1970年代、島に移住し、島のあちこちで教師や水産関係の仕事を続け、島の生き字引ともいえる夫婦です。駒井さんが祖先の墓のある蕊取村にはサケの孵化場があったと話したときに、セルゲイさんはそのサケの孵化場はまだ残っていると話したのです。
セルゲイさん「北部の村にはサケの孵化場がまだ残っています。私はそこで二年間働いていました。そこには石の大きな記念碑が建っていて、この工場を作った人の名前などが刻まれていて、1905年という数字は分かりました」
駒井さん「それに間違いありません。島の東部は駒井魚場と呼ばれていました。ぜひ訪ねて見たいです」
セルゲイ(リンマさん)「ちょっと遠いですが、日本人の墓もありました」
駒井さん「私はとても感動しています」
実は駒井さんの今回の訪問には、もうひとつの目的がありました。
Q.どんな目的ですか。
A.駒井さんは東南アジアなどの港湾工事を指揮する現役の商社マンです。今、北方領土では日ロの共同経済活動が動き出そうとしています。共同経済活動は、日ロの領土問題に関する立場を害さない形で、主権の問題が解決する前に、島で漁業や観光、水産加工など日ロの共同事業ができないか、模索するものです。
駒井さんは共同経済活動が始まるには、必ず港の整備が必要になる、そうすれば祖先が切り開いた択捉の地に再び戻る機会にもなるのではと考えて、今回のビザ無し訪問に参加したのです。
次はビジネスマンとして戻るかもしれない、駒井さんの頭の中にはそうした思いも強まっています。
「とても有意義な日々でした。ぜひこの島で暮らして働きたい」
Q.島への訪問というのはいろいろな思いを元島民、そして関係者に呼び起こすのですね。
A.そうですね。ビザなしの最後に鈴木咲子さんは、70歳になってから習い始めたロシア語で訴えました。
「両親のことも友達のことも覚えています。島との間で自由に行き来できる日が来ることを望んでいます」
島を離れるはしけの上では、駒井さんや鈴木さんなど日本人はふる里を歌い、島への思いを伝えました。来月にはウラジオストクで再び日ロ首脳会談が行われます。今動き出そうとする共同経済活動が、島に帰りたい、自由に行きたいという元島民の願いを叶えるよう、具体的な成果が出ることを期待します。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/278574.html
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