西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

1945年8月15日か9月2日かー米日の「攻防」-

2011-08-06 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
日本人に「太平洋戦争は何時終わったか」と質問すれば、「1945年(昭和20年)8月15日」と大抵答えるだろうし、私もそう思ってきた。ところが、同じ質問をアメリカ人にすると、1945年9月2日と大抵答えるようだ。

日本人にとって、その日は戦艦ミズリー号上で、重光 葵外務大臣が、連合国(実はアメリカ)に対して正式に降伏文書に署名した日である。実際、この日から、アメリカの占領政策がスタートするのであるが、アメリカ人にとっては、日本が正式に降伏した日が戦争が終わった日であろう。そして、公式にもこの日が、日本が「負けた」日なのだ。

今日、ビデオ『歴史館』で9月2日、3日の米日の「攻防」を見た。9月2日は、午前中にミズリー号艦上での「儀式」は、終わった。アメリカ占領軍最高司令官のマッカーサーは芝居がかった人物だ。ミズリー号上には米軍水兵が溢れ記録映画班がフイルムを回し、幕末に日本に来て開国を強要したペリー提督が当時もってきた米国国旗をわざと飾ってある。(☆の数で当時の米国は31州と知れる。)

午後に入り,GHQは日本政府に対し「明日(9月3日)に三布告を発表し、明日から「軍政」を始める(英語を公用語とし、お金は米軍の軍票(B券)を流通させる)」と通告、日本政府(外務省)は慌てて対応策に入った。重光 葵外相以下、午前中にミズリー号で文書の署名欄の不備を指摘した岡崎勝男など、徹夜で対応、「軍政はポツダム宣言に違反する」という一点で、最後は、翌日(9月3日)早朝、横浜のマッカーサー滞在のホテル・ニューグランドへ重光外相と岡崎局長が出向き直接談判、結局、「三布告停止」となった。

重光がマッカーサーに言ったのは「軍政はポツダム宣言以上のことをしようとしている。アメリカ軍にとっても日本政府を通じて占領政策をやるほうが、統治しやすいはずだ」ということだ。これにマッカーサーが納得したのは、天皇を残しておく方が日本を統治しやすい、という判断と同じである。

これから、日米安保条約を経て、アメリカの「間接統治?」が、ある意味、今も続いているのではなかろうか。

子ども時代(昭和20年代)の、マッカーサーやアメリカに対する印象と、大人(昭和30年代後半以降)になっての「学習後」では、大いに異なっている。