西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

日本は「雑種文化」に徹しよう(加藤周一著より)

2011-08-01 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日、加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』(講談社文庫)を久しぶりに再読した。

私は、生活ー衣食住ーの面でも日本人は「雑種」であって、それを洗練させていくのが今後の課題と思っている。例えば、食事で言えば、勿論、和食は主に食べているが洋食も食べる、それもフランス料理だけでなくイタリア料理やロシア料理も食べる。中華料理は昔から人気がある。最近はお隣の韓国料理も食べている。

飲み物で言えば、日本酒は当然として、ビール、ワインは勿論、ウオッカとかテキーラもたまには飲んでいる。日本茶は当然としてコーヒーは根づいているし紅茶やウーロン茶も飲んでいる。こういう国民は、世界広しと言えど日本人をおいてないだろう。

で、それはそれとして文化全体の問題として、加藤さんはイギリス文化やフランス文化は純粋種だが日本文化は古来、雑種であって、それで良い、それをしっかり推し進めることが重要だ、と論じている。賛成である。純粋種とか雑種というのは、優劣を言うのではなく、歴史的に本来そういうものだ、ということだ。

ここで、欧米文化で(アメリカは「新しい」のでおいておいて)、ドイツ文化をどう捉えるかについての考えが面白い。(これはロシア文化にも言えるようだ。)

ドイツ文化は、西洋文化の中では「雑種文化」だ、というのだ。例えば、ゲーテ(ドイツ)とラシーヌ(フランス)を比較してみよ、と言う。ラシーヌは、ギリシャ・ローマ・フランスのいわゆるラテン文化の純粋系であり、対してゲーテは、「イタリアの文芸復興、フランスの古典主義、英国の浪漫主義によって自己の世界を養ったばかりでなく、晩年には近東からさえもうけとることができるものをうけとったのである。」(45頁)これはカントとルソウ、ハイネとボードレール、トマス・マンとヴァレリーを比較しても言えると言う。

音楽の面でも「対位法と和声的音楽を発明したのはドイツ人ではなかった。しかしバッハからヴァーグナアにいたるドイツ音楽の世界より豊かな音楽の王国はなかった。」(46頁)

これらを読んで思った。

ドイツ生まれのマルクスこそ雑種文化の19世紀のピークではなかろうか、と。彼は、カント、ヘーゲルのドイツ哲学の伝統の上にアダム・スミス、リカードー等のイギリス経済学、フランス社会主義(革命、18世紀から19世紀はフランスが革命、反革命の本拠であった。)、更に歴史的なギリシャ・ローマ文化から東洋文明まで視野におさめ、徹底的に批判的に検討し、体系化しようとした人ではないのかと。(レーニンも雑種文化のロシアの子である。)

21世紀、日本より雑種文化を洗練させ、世界に発信すべきではなかろうか。