西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

奇蹟?!の個人史

2011-08-11 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
最近、『奇蹟』(東京図書出版会刊)という「個人史」的な本をざっと読んだ。著者は、荻田征美(おぎた まさみ)氏である。荻田さんは、面識はないが、私と同じ1941年(昭和16年)生まれ、北大医学部卒のお医者さん、私の妻が荻田さんの奥さんと大学時代の友人である。

本によると、荻田さんのお父さんも北帝大医学部出身で、軍医(中尉)となり満洲に出征、満洲で弟と妹が生まれた。戦争で父親が死んでもおかしくない状況を偶然も働き乗り越える。しかし、敗戦後、お父さんはソ連に抑留、残された家族4人(母親と子ども3人)は、母親の周到な準備の下、色々な出来事を越えて1946年(昭和21年)8月16日に日本の佐世保に帰還。

その後、一旦、荻田さんの父方祖父のいる福井の三国に寄り、北海道の伯父の所に「帰りつく」。父親はソ連・ウズベック共和国のタシケントの捕虜収容所から1948年(昭和23年)夏に無事北海道に復員。

・・・「「お帰りなさい、お父さん!」私達は、漸く終戦を迎えることができた。
事故や病気などで、家族の誰一人失うことなく、小さな荷物一つさえ略奪されることなく、無事、皆、故郷へ辿り着けた。これを奇蹟と言わず何と言うか、私には判らない。」と荻田さんは書いておられる。(33頁)

とにかく、戦乱に巻き込まれている、食料や物資が不足している、略奪の危険がある、色々な事故(列車や船など)が起こりやすい、結核その他伝染病にかかる恐れもある等々10年足らずの間は回りは危険だらけであった。そこで命を落とす、負傷する、家族ちりじりばらばらになる例は無数にあった。その事例も紹介しておられる。荻田さん一家が、それらを乗り切ったのは、やはり「奇蹟」ではないかと思わずにいられない。

私も荻田さんと同じ歴史的時間を同い年として体験しているが、私は「内地=金沢」の母方祖父母宅に留まり、私の父は職業軍人として母と共に満洲に渡り、そこで妹が生まれ、やはり戦後に両親と妹は無事金沢に帰りついた。両親に詳しく聞いた訳ではないが、両親と妹が無事帰れたのも「奇蹟」であったろうし、私が空襲や原爆でやられなかったのも「奇蹟」なのではないか、と思う。

そして、現在まで交通事故にも遭わず、重い病気にもならず、大地震や大津波にも原発事故にも直接遭わず「古希」まできたのも「奇蹟」ではなかろうか。

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