西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

京大宇治寮での生活

2005-11-08 | 京都の思い出(学生時代)
私が京大工学部建築学科に入学したのは1960年(昭和35年)4月である。その年度で京大宇治分校閉鎖、したがって宇治寮も閉鎖されたので私達が京大宇治寮最後の世代となる。その寮は、京大宇治分校から京阪電車宇治線、国鉄奈良線を越えて東側の山の方に上がった所にあった。北寮と南寮があり私は北寮の2階17号室ではなかったか。和室六畳間で二人部屋だった。相棒は、同じ工学部工業化学科の山根恒夫君だった。彼は鳥取県八頭高校の出身の秀才、後に名古屋大学農学部教授(食品工学)となり、今年の3月に私と同じく定年退職になったと思うが、どうしているだろうか。その年の秋、山根君の実家から「二十世紀梨」が送られてきて我々も恩恵にあづかった。宇治寮の電話番号は宇治の49番、市民が嫌う番号だった。私は、それは「死苦」ではなく「良く」だ、と言っていた。物も言いようである。
当時、まだ旧制高校のバンカラ風が残り、「窓ション」というのもあった。1960年は、安保闘争の年、皆「挫折」の気分、秋の寮祭の後、寮生の一部が京都女子大寮に「ストーム」をかけ乱入、次の日の「京都新聞」に大きく報道された。私は、残念ながら酔っ払って寮で寝ていて参加できなかった。その年度には、ある京大生が第一号国宝である広隆寺の「美人」の弥勒菩薩に抱きついて捕まったという事件もあった。(この事件で弥勒菩薩の指が折れて大騒ぎになった。今は修復されている。)

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