西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

京大T3会(クラス会)発足

2011-05-11 | 京都の思い出(学生時代)
昨日、雨の中、京都のKKR(国家公務員共済)くに荘(京都府立医大病院裏)に昼前に行った。

そこで行われた京大T3会発足の会(午餐会など)に出席のためである。ほぼ50年(半世紀)ぶりに会う友人もいる、果たして会っても分かるだろうか、自分も分かって貰えるだろうかの不安があった。

というのは、私が入学した1960年(昭和35年)頃は、教養課程2年間は、専攻別のクラス分けではなく第二外国語によって、1クラスに数専攻の学生が混じっていた。そのうちの建築専攻者は、3年(関西では3回生という)以上でずっと一緒で、卒業しても若いころは10年に一回、最近では少なくとも5年に一回は「建築クラス会」で会っているので、風貌の変化も含めて良く知っているのだが、他の土木専攻、鉱山専攻、原子核専攻、電子専攻の友人とは、1962年3月に「分かれた」ので少数の友人を除いては、会うのは49年数か月ぶりなのである。

我々「T3(工学部3組)」は「ドイツ語組」であり、全員で53名(全員男性)、土木が一番多く、次いで建築、更に鉱山、原子核と電子は少数で2人と1人だった。今回参加は、土木13名、建築8名、鉱山6名計27名で過半数で、原子核と電子は残念ながら欠席だった。この間、亡くなった友人は3名。ついでに言うと、当時の京大工学部入学者は600人台、教養部では10数クラスがあったと思う。

我々の担任教授は、1回生時は藤岡謙二郎先生(人文地理学)、2回生時は、多田政忠先生(物理学、日本初のノーベル賞の湯川秀樹先生と、中学ー府立一中、高校ー三高、大学ー京都帝国大学理学部とづっと同期)だったが、お二人とも鬼籍に入っておられる。

一部家業等で現役も若干いるが、殆どはリタイアして年金生活者である。まあ年齢が69歳~71歳位(現役から2浪まで)であるからそうなるのであろう。職業経歴では、ゼネコンが一番多いかと思うが、建設省や大阪市など国や地方自治体の役人も特に土木卒で結構いるし、私のように大学や研究所勤務も一定のまとまりだ。京大で教授になったのは土木で二人いる。

受付に行って会費を払いプログラム等を貰った。名札を付けた。建築の連中は全部分かる。土木、鉱山でも何人かはすぐに分かったが、名札と顔を見比べてようやく「そうか」と分かった友人、後で学生時代の写真(アルバム)を見せて貰い、ようやく分かる友人もいた。

実は、こういう会をしたらどうかと私も大分前に提案したことがある。昨年度辺りに機が熟してきたのか、東京圏にいる半分位のクラスメートで集まって、西日本の友人も含めて開こうとなって、幹事を選び(14名)、メイルで場所や形態などのアンケートをしたり、卒業後の略歴や個人史、最近の日常や子供や孫のこと、健康のことなどは事前にメイルで依頼があり、全員に配布してあり、自己紹介時間の節約をするなど手際良い運営だった。

最初にこの間、亡くなったクラスメート三人と東日本大震災で亡くなられた方々に黙とうをささげて会はすすんだ。

座を移動させながら殆どの友人と駄弁った。まあ体型を分類すると、メタボ系、ややメタボ系もいるが、私は普通系か。おつむもシルバー系、薄い系、ゴマ塩系などが混じっている。私はゴマ塩薄系か・・・。

以後、15時まで歓談と京大T3会設立の承認、当面2年に一度当分京都で開催、幹事長と幹事次長の選任など行った。懐かしの写真も見せて貰った。

15時に一旦解散、なお夕方の二次会にも参加する友人は残り(15人か)、またそれには参加しないが京大周辺散策に参加する友人も残り、小雨の中、京大吉田キャンパス(2回生時の学び空間)、本部時計台キャンパス(3回生以上の専門課程空間)に行った。京大教授歴任の土木の友人が最近の様子を細かく説明してくれた。私は友人3人と時計台内で京大ビールを飲んだり、時計台前喫茶店でアレコレ駄弁ったが、吉田山に登ったり、真如堂などに行ったグループもあった。

18時から、四条河原町の居酒屋で更に駄弁った。50年の「蘊蓄」を聞くので時間は全くの不足、またゆっくりとなった。書いた本を持ってきた友人もいて一冊買った。

今日の記念写真、記録写真、昔のクラス雑誌のコピーなどを幹事がCD化して配ると言う。楽しみにして又噛みしめたい。幹事の皆さんご苦労さん、有難う。又再来年!

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