西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

日本建築学会に最初に報告した論文(1965年9月)より

2011-08-26 | 京都の思い出(学生時代)
私が昔発表した「論文」として、昨日、一昨日と「「原子力発電所」と地域開発」(1973年2月)を上げて再掲してみたが今日は、京大院生時代(1965年9月)に初めて日本建築学会に報告した「論文」の題名、狙いなどを述べてみたい。

その「論文名」は、「道路開発にともなう山村の生活環境条件の変化と問題点」というもので、日本建築学会大会で私が発表したものである。共著者は、三村浩史さん(当時、京大助手、現・名誉教授)、延藤安弘さん(当時、京大院生、同期)であった。

この報告の元データーは、三県山岳地域開発に関する調査研究で、奈良県十津川村の林道等に関して調査したデーターだった。(三県とは奈良県、和歌山県、三重県である)

この論文をまとめるため三村浩史さんと何度も話し合った記憶がある。三村先生は、当時オランダの研究所に、オランダで亡くなられた絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生(京大助教授歴任)の「後釜」として出発準備で忙しい時だった。

ところで私の「論文」だが、道路そのものを対象とすると「土木工学的」となるので、「生活環境条件」という言い方をして、道路の開発と関係した生活条件を探るテーマとしたのである。

林道が開通する以前は、樹木運搬は河川を通じる筏(いかだ)であった。林道が通じてからは、五条にも新宮にも樹木を搬出できることになり、両市場の様子を聞いてから目的地を決めれたのである。林業上、便利になったと言える。

生活上も、自動車やオートバイがあれば便利になったのである。そういう風にプラス面ばかり目につくが、じっくりと自動車もオートバイももてない階層に思いをいたすと、バスなどの公共交通が導入されないと、かならずしも便利になったと言えないのである。また生活空間として道路を捉えると、ゆったりした散歩などには、トラックや自家用車やオートバイは危険要因で、歩道設置ということもある。この論文では、それらのことを明らかにしたのである。今では「当たり前」だが1965年(昭和40年)では、そうでもなかったのだ。

こういう風に、以後、現在にいたるまで、住宅そのものを対象とする研究を中心としてきたが、同時に道路、ダム等の土木空間を生活空間として捉える研究もしてきたが、この「最初の論文」にそれが現れているといえる。地域開発と、個々の空間だけでなく地域全体を問題とするスタンスも得たのではないか。それが「原子力発電所と地域開発」という捉え方に通じるし、後々、「地域居住学」という発想にも通じていくのである。

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