西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

半島論

2005-08-21 | 色々な仮説や疑問
私は金沢生まれで、金沢は石川県に属している。石川県の領域は江戸時代まで加賀と能登で構成されており、能登は、正に能登半島部である。子供の頃、金沢(加賀)が都会、七尾、輪島のある能登は田舎というイメージだった。金沢にいるので、そのように感じたに違いない。
その後、大人になり現在にいたるまで良く過去まで含めて考えれば、日本列島の半島は、初めは外部(外洋)からは取っ掛かり部であり、入り口であり、先進部ではなかったか、と思うようになった。朝鮮半島(これも国全体が半島だ)から、また中国大陸から潮流に乗って流れてきたら、当然、最初に島か半島にぶつかる。隠岐島、丹後半島、能登半島、佐渡島あたりに流れ着く。昔は朝鮮半島や中国大陸の方が文明や文化が進んでいたから、進んだ文物や人物が半島から日本に入ってきたのだ。太平洋側で考えると最大の半島は紀伊半島(私は紀州、伊勢を含む紀伊半島は、真ん中の大和も入れて、紀和伊半島と言うべしとも思う。一寸、際もので奇異かな?)で、ここも大昔は「進んでいた」のではないか。先端の熊野神社の辺りに中国の秦の始皇帝に頼まれて不老長寿の薬を探しに「徐福」が漂着した伝説も残っている。
ところが、時代が下がると、湾の奥(半島の付け根)に港、都市が出来、それらを結んで幹線がはりめぐらされ、新幹線や高速道路も大体、半島の付け根を半島をカットする形で通った結果、半島特に奥部は「取り残される」形になっているのだ。
もう一度、半島の意味、位置づけを歴史を踏まえて考えたいものだ。

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