最後の生粋の今戸焼の人形であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の養父である尾張屋5代目の兼吉翁の作ではないかと思っている人形です。筆のタッチが春吉翁晩年の作に比べると大味な感じ。赤部分には明治特有の紅系の顔料が使われている点、緑部分に花緑青(酸化銅)が使われているなどの理由でそう思っています。晩年の春吉翁の人形のレパートリーにはこの型が入っていなかったのか、昭和になって造られたこの人形はまだ観たことがありません。
お母さんの眼のまわりに赤っぽいぼかしがあるのですが、紅を水溶きしてぼかしたような感じには見えないので粉のまま刷毛で刷り込んだものかどうか?お母さんの着物の色が渋いです。何色なのか?
上着が渋く決まっていて粋な母親になっていますね。
当時としてはごく日常的な姿を人形化したものなのでしょうね。
また作られて当時は特に民芸品とか手作り伝統工芸品とかいった特別なものではなく、ごく普通に観音様の境内の片隅の露店に並んでいたか、行商人に担がれて売られていたものだろうと思います。
お母さんも赤ちゃんも主役なんですね。
裏側(背中)がどうなっているのか興味を持ちました。
土人形って、本当に素朴で心が温かくなるような気がします。
赤ちゃんの笑顔を改めて眺めてみると、結構大きく笑っていますね。この人形はこうした今戸焼で作られてごく普通に浅草の観音様の境内の露店に並んでいたり、おもちゃ屋人形屋に並んでいたか、又は雛まつりの頃行商の人が担いで売り歩いていた時代のもので、今のように民芸品であるとか伝統的な手工芸品というような見方はされていなかったと思います。今戸焼の人形にはいろいろな種類があって縁起をかつぐ動物とか神様の姿とか、吉祥的な題材のものもありますが、その当時のリアルな風俗を写したような人形もあり、この人形など明治の当時の風俗なんだと思うのですが、こういう姿のおんぶした母子が浅草辺りにいたのでしょう。赤ちゃんの被っているものやよだれかけは何だか大袈裟な感じに見えますが、それだけ大事におしゃれにしてもらっていたとも考えられますね。
こうした土人形の多くは裏にも彫がありますが大抵裏は胡粉で塗られた白の地色のままで前面のようには色分けして塗られていないことが多いです。もちろん例外もありますが、、。