水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

やさしくない話・1

2005-03-21 21:49:46 | Weblog

「やさしい話」の続きとして書きたくなかった。
多少文章の「氣」が荒れてしまいそうだからだ。
1月の阪神大震災の悲惨な混乱が続いている最中だった。
無差別サリン事件という殺戮が東京であった。
あれから10年経った。

その前年の5月。
奈良県生駒山にて龍村先生のヨガに触れ、
目からウロコやら、耳から耳栓やらが落っこちた。
「これがヨガなら、学びたい!」
そして11月に再び触れ、その思いは強くなった。

ワシはアホのワガママだ。
当時、今より痩せていたが愛しいかどうか微妙な妻と、
三歳と一才の子供の事など(一時的に)忘れていた。
いや、今でもしょっちゅう忘れる。
ワシは特技だと思っている。

龍村先生に「弟子入りしたい」と直訴した。
アホのワガママでもワシは社会的常識を知らないわけじゃない。
生活はどうする? 生活費はどうする?
頭の隅には社会的常識があったが、口が勝手に言ってた。

その当時は故御師匠様(氣功)を追いかけていた。
時々は素面に戻る事もある。
何故こんな事をしているのか不思議だった。
一応一家の主(ワシのことです・・・)が仕事もせずに、
白髭のオッサン(御師匠様)を追いかけていていいのか?
それが、更にヨガも追いかけだしたのだ。

故御師匠様が急死し、やっと自分の行動の意味が解る。
そういう事だったのかぁ・・・
さっさと逝ってしまう予定だったのかぁ・・・
何とか間に合ったのかもしれない。
こうなると運命だか宿命だか知らないけど、
進むしかないのだろうなぁ・・・。

同じように頭で考えた行動ではなかった。
龍村先生に学びたいという衝動だけだった。
ワシなら断る!(可愛いオナゴならともかく)
だが龍村先生は優しい。
「考えている事があるから、後ほど連絡します」

サリン事件はその連絡が来た頃だった。
「ホリスティックヘルスコンサルタント養成講座」
10年前としては全く新しい試みだったろう。
四月から一期生を募集する内容だった。
もちろん、すぐ申し込んだ。
そしてワシにとって龍村先生は龍村師匠となった。

あの事件で「ヨガ」は社会的拒否反応が起こった。
「ヨガ」はカルト集団の入り口に利用されていた。
「ヨガ」を理解しないまま日本に広まった弊害だった。
「ヨガ式健康体操」くらいならまだいい。
本来「結び・調和」の意味を持つ言葉が、
「自己進化」や「能力開花」などと勘違いされたからだ。

(本来の)ヨガを生活の一部として融(解)かせば、
結果として自分の進化や成長はあるだろう。
だが目的をそこに置いたら絶対に成長はしない。
進化の仕組みは自己中では退化するように出来ている。
当たり前なんだけどねぇ・・・

調和(平和)を示した深い道標を理解しないで、
自分の進化、成長の為に修行と称し使っている。
自他を認め、融(解)かし合う技術と哲学なのに、
「霊性の進化を意識する」のが欲望だと気づかない。
あの狂団は「ヨガ」の正反対を修行(?)していたのだ。


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やさしい話・8

2005-03-20 20:48:17 | Weblog

ワシは「珍事」と「変」を求めてはいるけど、
ワシは「真理」や「愛」を求めなさいと言わない。
当たり前だよねぇ・・・いいかげんだもの・・・。
言う事とやる事が気まぐれなんだもの・・・。
「愛」を求めるより「愛人」を求めよ!
でも「変」な「愛人」は求めないぞ、オー!
(す、すんません・・・。
時々グレないとバランスがとれないもんですから)

そんなナマケモノのワシだって思う事はある。
もし「愛」が難しいものなら、
もし「真理」が困難な相手なら、
届くのは一部の人だけだろうなぁ・・・
少なくてもワシのような根性無しには無理だ。

もし「愛」や「真理」が「やさしい」モノなら、
誰でも理解し、使えるものだろうなぁ・・・。
「愛」や「真理」が「幸せ」への道ならば、
誰でも平等に理解し、使えるように用意しているだろうなぁ。
神様という超偉大な魂(?)があるなら、
人間だけとか、人間の一部だけに限定なんてことはない。
ナマケモノも根性無しも嘘つきも幸せになれると思う。

でも仕掛けはあるだろう。
神様はオチャメだと思うから。
そのカギが「素直(自然体)」なんだと思う。
そのカギを使った時にだけ「扉」は開く。

人の社会は「素直」だと利用され、ダマされる事もある。
「やさしい」から苦労する。
「やさしい」から泣く事もある。
人の仕組み(社会)と、この世の仕組み(自然)は別だ。
重なる部分もあるが、社会は「人の結界」内だ。

結界内(社会)で暮らせば、自然体は変わりモノになる。
素直に生きると、摩擦さえ生じる事がある。
「やさしい」生き方が難しくなる。
人の仕組み(社会)は、歪んでないかぁ?
自然の仕組みに戻した方がいいんじゃないかぁ?
それは一人一人の「意識」で戻せるぞ。

ワシは「愛」や「真理」はどうでもいい。
最初から最後まで持っているし、包まれている。
そんなことより、見失って苦しむ人を相手にしたい。
「難しいことはない」と無責任に言おう。
責任は・・・神様がとってくれている。
ワシは「神を信じている」

苦しみ、悩みから逃れるのではなく、
もちろん立ち向かうのでもない。
原因探しなんてツライ事もしなくていい。
「やさしくなる」
それだけでいい。
それだけで、楽になれる。

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やさしい話・7

2005-03-19 20:01:15 | Weblog

またまた思い出した。
「素直になれ。素直になれば解る。」
この言葉の深さも何年もかかって染みている。
ワシの氣功療法は(自分が)空(カラ)でないと使えない。
(自分を隅にどけるだけで、仏教の「空」ではない)
つまり素直度で流れ込む「氣」の大きさが変化する。

「素直になれば観える」
龍村道場での求道ヨガに通った3年間。
体で覚えたのも「素直」だった。
ヒネクレが趣味のワシは「素直」と相性がいい。
(注:歪みとヒネクレを区別してね)
「ヒネクレ」も「素直」も同じ根だと知った。
ワシの場合は氣功とヨガで相乗効果で加速した。

「素直」も奥が計り知れない。
何処までも進むことができる道だ。
その「素直」とは「やさしさ」の別名だった。
「優しさ」と「易しさ」の別名だった。
楽な道は「素直になれば解る」
求めるモノは「素直になれば観える」
(ストレートの素直じゃ恥ずかしいから、
ワシはヒネクレを愛用しているけど・・・)

この世はヒネクレている。
放せば、持っていることに気づく。
観えていたことに気づく。
誰でも「やさしい」ことに気づく。
何もかも「やさしい」ことに気づく。

師の師(故沖師)の師はマハトマ・ガンディー。
やっと聖ガンディーの生き方の一片と共鳴できた。
何故、あんなにも「やさしい」人だったのか、
全ての解決に「やさしさ」を使ったのかわかる。
(いや、わかってないかもしれないなぁ・・・)

師の師である故沖師が初めてガンディーに会い、
「ヨガとは何でしょう?」と尋ねた。
「知りたかったら、私の生活を観て実行しなさい」
そして生活を共にした。(だから生活ヨガともいう)
(ガンディー聖師にとっては初めての日本の青年で、
たいそう可愛がられたそうです。)

ワシには聖テレサと聖ガンディーがカブってしまう。
その質素な姿や行動力の素直さが同じに思える。
魅力的な笑顔がとても似ていると思う。
悲惨なモノを体で受け止めた圧倒的な大きさは、
「やさしさ」だけで融(解)かしていった。
素直な笑顔は「やさしさ」の大きさだと思う。

伝記などではマジメな表現が多いが、
実際はイタズラ好きなオチャメな偉人だった。
子供達が好きで、子供達に好かれるのも、
「素直なやさしさ」と共鳴するからだろう。


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やさしい話・6

2005-03-18 21:11:31 | Weblog

そういえば思い出した。
故御師匠様が何度も言った。
「考えるなよ。人間はバカなんだから」
御師匠様の言葉は素直だから深い。
意味が解る(気づく)まで何年もかかる。
そして、その言葉が「やさしさ」に溢れている事にも。

御師匠様に付いていたジャーナリストがいた。
何しろ、常に奇妙(奇跡)がおきる。
ネタに困らない(と思ったかどうか知らない)。
あるとき御師匠様に言われた。
「小学生がわかる文章にしなさい」
そして、そのジャーナリストは生まれ変わった。
ベストセラーが出て、一つの分野の代表となった。

中国で一緒だった時に親しく話を聞いた。
(故御師匠様と行った最後のツアーでした・・・)
プロのジャーナリストの姿勢を観た。(これも凄いけどね)
そして「易しく」書くことの難しさは、
それまでの頭が邪魔している事を語った。
「易しさ」は「優しさ」から出ている。

ジャーナリストは他人に解る文章が仕事だが、
ワシは独善世界を愉しんでいるだけだ。
他の人が解ろうが悩もうが知ったことじゃない。
ワシ独特の表現で好きなように書いている。
でも、ワシも低俗が好きな欲人間だ。
好きなように独善で書いて、売れないかなぁ・・・。
棚からぼた餅と抹茶とマンガ本が落ちてこないかなぁ。

もう一人の龍村師匠の指導が何故凄いのか、
この「やさしさ」に気づいたら解けた。
物凄い能力を「やさしさ」に変換したからだった。
誰にでも解る指導は、誰にでも出来るわけじゃないなぁ。
能力はストレートに使う為だけにあるわけじゃなく、
変換する為にもあるんだなぁ・・・。

昨年、一昨年とセミナーの(ヒーリング)講師を頼まれた。
受講生として道場に通っていた時に気づかなかったが、
講師の立場から師匠を観た時、別の凄さに触れた。
凄さの正体は「やさしさ」だった。

二人の師匠様に出会った。
それだけで、ワシはラッキーだった。
ワシは不肖で不マジメだが、ラッキーに変わりはないぜ。
そんなワシが一片でも受け継ぐモノがあるとすれば、
「やさしさ」以外にない。

とはいえ、ワシも勝手に頭を回す癖があるからなぁ・・・
(どうでもいいけど、自慢も卑下もしてないよ)
そこがハンディだが、ハンディは忘れるに限る・・・
替わりに天賦の才能もある。
「いいかげん」だ。
うらやましいだろう。(これは少し自慢だ!)


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やさしい話・5

2005-03-17 20:52:03 | Weblog


1997年9月。聖女帰天。
同じ年の7月にワシはインドにいた。
マザーテレサとは直接会えなかったが、
その時一緒だった龍村師匠の実姉、和子先生が、
直後に行ったマザーハウスでの「奉仕」を、
04年2月のコラムで書かせていただいた。
(本館のHPにありますよ~)

マザーテレサの言葉は魂に染み込む。
不マジメなワシが姿勢を正してしまう・・・。
その中の一つにこういう言葉があった。

「私は正しくても不親切で冷淡な奇跡より、
間違いでも優しさと慈しみを選びます」

今のこの仕事をしていなかったら、
崖っぷちの人達と接していなかったら、
鈍感で独善のワシではこの言葉の深さが響かなかったろう。
考え方の違い、生き方の違いとしか思わなかったろう。
状況が理解できなかったろうと思う。

ワシが(一時)追い求めていた「正しさ」なんて、
とても、とても、とても恥ずかしいと思った。
ワシは怖くてマザーテレサを追いかけられないが、
プロフェッショナル・ヒーラーとして同じ方向を目指そう。
「いいかげん」なワシでも、魅かれる光には向かうものだ。

今でもワシには癖がある。
治療や指導に「正しさ」を持ち込もうとする。
その時、この言葉を思い出す。
(いや、思い出さない事も結構あるなぁ・・・)
思い出せば、一瞬にして光が観える。
光は・・・やさしい・・・。

「やさしさ」の姿を知らなかった頃、
ワシは「やさしさ」を固定概念で観ていた。
「優しさ」の大きさも柔らかさも凄さも知らなかった。
「易しさ」に深さがあるなんて思いもよらなかった。
「厳しい優しさもある」と勘違いはしていたけどねぇ。

ホンモノの「やさしさ」を受け取ると、
「やさしさ」の大きさに気づいてしまうのだ。
でも、それは受け取れる分だけの気づきだ。
「やさしさ」に底はない。
(あるかもしれないけど、ワシには判断できない)
だから、どんな人でも、いつでも「気づき」がある。
ワシが受け取れた量なんて高が知れている。
だから、いつまでも追いかけることが出来る。

マザーテレサは祝賀会の御馳走を前にして、
「今日は断食の日です」とウソを言った。
主賓が食べないのでは他の人が食べられるはずがない。
「では、お腹を空かせている子供達に配ればいいでしょう」
さっさと会場を後にしたマザーテレサの瞳は笑っていた。
「やさしさ」ってオチャメな姿だってするんだ。
残された人達のそれぞれは、何に「気づき」、
どんな「やさしさ」を受け取っただろう?

グレちゃん(創造主)がこの世を創ったのは、
「やさしさ」だからだと思っている。
だって、かなりオチャメに創られているもの。
生きているモノが可愛くって仕方ない。
たとえ、それが、どんな状況であろうとも。


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やさしい話・4

2005-03-16 21:07:58 | Weblog

「やさしい話」は言葉でもできるが、
ただの言葉だけじゃ足りない。
「やさしさ」は相手が「やわらぐ」ことだ。
相手が解放できる事だ。
相手がその場で変われる事なんだ。

言葉を使うなら、言葉で感じるモノが必要だ。
言葉から染み入るモノが必要だ。
言葉で飾り立てると、内側に響かない。
見えないモノを言葉に乗せる。
ワシ流に表現するならば、
言葉という乗り物で「氣」を届けるのだろう。

同じ話でもブッちゃんと弟子達は違った。
一言一句、同じ話をしても、ブッちゃんほど響かない。
「話」を覚えても、乗せてある「氣」に気づかなかった。
難しい「氣」ではない。
「やさしい話」だから「やさしさの氣」だった。
実に素直なモノだった。

言葉には「力」があるが、「力」を使わない。
頭の良い弟子達は「力」にこだわった。
「力」は使わない為にもある事を理解できなかった。
「力」を身に付けても使わない使い方(?)がある。
使わない「氣」が「やさしさ」になる。

例え話にしよう。
力の強いレスラーが、その力をフルに使わない。
喧嘩相手そっと抱きしめる。
(ちょ、ちょっと気持ち悪いかも・・・)
それが「やさしさ」というものだ。
すると、別の何かが発生するようだ。
(オトコ同士の愛・・・とか茶化さないで・・・)

ものすごい「力」がある。
あるから使わない。
そして、そっと抱きしめたから、
多くの奇跡が起きた。
マザー・テレサという聖女は、
そういう「やさしい」人だった。

言葉は道具の一つ。
時には「歌」が「やさしい話」になる。
「微笑み」が「やさしい話」になる。
瞳の温もりが「やさしい話」になる
手の温もりが「やさしい話」になる。

ワシは不マジメな生き方をしているが、
プロフェッショナル・ヒーラーとしては
「やさしい」使い方を学ぼう(気づこう)と思う。
とても頼りになる御筆先様という味方がいるが、
文章の言葉でなく、「氣」を言葉に乗せている。

時々・・・上手く乗せる事ができている。
そう思うことが多少増えたかな?(自画自賛)
だから文体が統一されてなくても、
コマギレな節であっても気にしないでね。
ワシはちっとも気にしてません・・・(開き直り)


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やさしい話・3

2005-03-15 20:28:24 | Weblog

理屈で考えていた時期、
他(人)の手伝いなんておこがましい。
それは傲慢だと思っていた。
他(人)を救えるのは自分が完成してからだ。
自分が高いところへ行けたなら、他へ手を出せる。
自分が力を付けてから、他の役にたとう。
本気でそう思っていた、薄い情の時期があった。
それこそ傲慢だったのになぁ・・・・。

目の前に苦しむ人がいる。
目の前で溺れている人がいる。
そんな時に理屈を言うのは大バカヤロウだ。
自分の立場なんて関係ない。
すぐ抱きしめるのが当たり前だ。
すぐ飛び込むのが当たり前だ。
綱渡りのこの仕事を続けるうちに、
そんな当たり前に気づくようになった。

(自分の成長や進化なんてどうでもいいが、)
「進化を意識して進化するはずがない」と気づいた。
ワシは一番肝心なことが、解っていなかったのだ。
この世の仕組みはヒネクレていたのだ。
オチャメに創られていたのだ。

進化や成長が必要だと仮定するなら、
それは死んでからの方が時間がたっぷりある。
あの世にいる期間なら、たっぷり修行できる。
この世は自分の成長を意識する舞台じゃない。
多種多様なモノ達と一緒に生きている舞台だ。

ブッちゃん(仏陀)はマジメで向上心の強い弟子に言った。
「悟ろうとするなよ。そんなのホットケ!」
このオヤジギャグがウケてホトケと言われるようになった。
魅力的なオッサンは笑顔とギャクで周りを融(解)かした。
でもブッちゃんが入寂するとオヤジギャグも少なくなった。

(愚かで)マジメな弟子達は小難しい理屈を書きとめた。
「やさしい話」に難解な解釈を付けていった。
「イロイロなモノを放そうよ」と説いた御師匠様に逆らい、
自分達でないと解説できないモノを「付けて」いった。
「フッ、頭の良い者だけが理解できるのさ・・・」
エリート意識は昔からイヤラシイなぁ・・・。

後にこのインドにマザー・テレサという聖女が現われる。
ブッちゃんと同じことをした。
同じことを言った。
「苦しみ」「深い悩み」「死」を目の前にして、
厳しさや難しさは邪魔になるが役に立たない。
プロフェッショナル・ヒーラーとして断言できる。

「やさしい」だけが必要で、
「やさしい」だけで充分だった。
(充分じゃないとは思うが、とりあえずはいいでしょう・・・)


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やさしい話・2

2005-03-14 21:02:41 | Weblog

字が読めない、書けない。
生物は、それが大部分だ。
字を読んだり書いたりする生き物は特殊だ。
出来る人間でも自国の言葉だけだ。
自国が他民族国家の場合、言葉も一部しか理解できない。
一部も読めない、書けない人間だってかなりの割合だ。

言葉は素晴らしい発明ではあるが、
言葉で通じなくても理解できる話が「やさしい話」だ。
多分、ブッちゃんはそれをやってのけた。
「優しい」と「易しい」は深くて広い。
難しくも厳しくも無いが、とても大きい。

誰にでも、どんな段階でも当てはまる。
それが「優しい・易しい」ということ。
何処までも広く、何処までも高く、深くある。
考えなくても理解できる。
考えていては、理解できないかもしれない。

「優しい・易しい」事に比べたら、
厳しいことや難しいことなど薄っぺらだろ?
「有限の人生の無駄使いだよ」
ブッちゃんは自らの厳しい修行体験をそう語った。
ブッちゃんはその頃はマジメだったから、
ホントに厳しい(命懸けの)修行をしていたらしよ。


「やさしい」事の大きさ、高さ、深さに気づいたら、
ブッちゃんは「いいかげん」になった(と思う・・・)。
何しろ人間もタヌキも一緒に話をしているんだ。
ブッちゃんは「メンドクサガリ屋」になったのかもしれない。
ウソも平気で言うし・・・。

その行いは常に「弱いモノ」の味方(観方)だ。
苦しむモノ、困っているモノに目を向ける。
上を目指すことが「厳しさ」「難しさ」だとすれば、
それは「無駄使いだよ」とやさしく説いた。
でも・・・愚かな弟子達は解らなかったようだ・・・。
(教え方が悪いのかも?・・・ブッちゃんの・・・)

精神世界を彷徨すると「難しいモノ好き」が多い。
ワシもそうだったと思う。
だから迷っていたのだと思う。
「難しいモノ」「厳しいモノ」に価値があると錯覚し、
(自分が)上に行くことを目標にした時期があった。
「やさしい」ことに目を向けるなんて思ってもみなかったなぁ。

イキナリこの仕事に出会い、入ってしまい、
「苦しみ」と「死」に出会うようになった。
「悩み」と「悲しみ」の人達を触るようになった。
もう理屈遊び、言葉遊びの時期を通り過ぎていた。
「やさしい」ことの大切さに気づかされた。
「やさしい」ことの大きさに出会う事ができた。


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やさしい話・1

2005-03-13 19:42:52 | Weblog

「やさしい」雑記を書こうと思った。
「優しい」と「易しい」。
日本語ってかなり面白い。
音が同じだと意味も根が同じになる。
(違うこともあるけど、それは気にしないで・・・)

「やさしい」ことから学ぶモノは多い。
「優しい」ことは重要な意味を含んでいる。
この世の「存在」の意味を含んでいる。
ワシは30年以上かかって解った(つもり・・・)
この雑記でも、その断片を度々書いてきた。

この世は「優しい」から「存在」できていた。
そして「易しい」から「存在」できていた。
「優しい」歩き方をしないと苦しむ。
「易しい」方向に行かないと苦しむ。
実に当たり前だった。

実に当たり前に気づくまで30年もかかった。
ワシって・・・アホなのね・・・。
だからワシはアホの味方だ。
アホは可愛い。
自分を可愛いと思えないと苦しむ。
当たり前だよね。
これも「優しい」から学んだ一つだ。

嘗て今よりもアホだった大アホの頃、
「厳しくなければ成長しない」
と本気で思っていた。
「難しいから面白い」と思っていた。
実に薄っぺらな表面しか観ていなかった。

今も立派な(?)アホだけど、
「優しくなければ成長しない」
(まぁ、成長はどうでもいいんだけど・・・)
「易しいから面白い」と理解できる。
精神世界は表面に仕掛けがあったんだ。
表面の役割は「ヒッカケ」だったと気づいた。

「氣」というモノを体で扱うようになり、
「氣」はウソをつけないと気づいた。
表面を最初から通り貫けていた。
頭(理屈)はむしろ邪魔だった。
気づいてしまえば、簡単な事だった。

ブッちゃん(仏陀)はこの世を看破した(らしい)。
そして最初に話した相手は森のケモノ達だ。
ウサギや鳥やタヌキに理解できる話だ。
生きとし生けるモノ全てが理解できる話だ。
難しいわけがない。
当たり前だった。

「優しく・易しく、生きると楽だよ」
それだけだった。


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ウン○・7

2005-03-12 20:13:17 | Weblog

オナゴの「HOW TO SHIT」は隠されてきた。
オトコに比べ個体差が大きいオナゴは一人で対処してきた。
本来はオトコのワシが口を出す事柄じゃ無い。
それを認識した上で、あえて書いている。
結構、これでも気を使って表現しているんだけどねぇ・・・
ワシは「下品」は好きでも「下品な表現」は好きじゃない。

閉鎖空間でも然りだが、野外では尚更工夫が必要だった。
列車内トイレは閉鎖空間ではあるが、野外に似ていた。
日本の鉄道のように滑らかで振動が少ないわけじゃない。
揺れる移動空間内は穴から地面まで遮るものが無い。
外の車輪音がトイレ内に直接響く。

インディアントイレはシンプルだが騒音が酷い。
日本なら深遠なる真理に想いを寄せる空間だが、
哲学の本場の空間は、静寂とは無縁だった・・・。
「あ~ウルセェ! 耳鳴りが未だ続いている・・・」
その代わりに、生活の中に生きた哲学が転がっている。

騒音の中、オナゴ達はそれぞれ必死に考えた。
さて、どっち向きに座ったらいいのだろう?
穴が真ん中にあったなら悩まない。
オナゴによって意見が分かれた。
どちらにも正当で性等で聖等な言い分だ。

壁に向かって座ると、膝が壁にぶつかる。
「あら、アタシ、ぶつからないわよ」
ヨガの先生方だから体は柔らかい。
180度開けば、ぶつからない。
でも手をつかないと、インドで初キスが壁になる。
とにかく揺れるのだ・・・。

大と同じに壁にお尻を向けて座る。
大ならいいが、小では飛び出る・・・。
「あら、アタシ、大丈夫よ」
「アタシは絶対無理!」
「穴が小さすぎてアタシは横にズレないと」
オナゴは様々な方向と角度があるらしい・・・。
いろいろ勉強になりました・・・。

ワシが思うに、
あの穴の位置を設計したのはオトコだと思う。
オナゴの意見など、一つも聞いてないのだと思う。
オトコの身勝手社会の弊害はこんなところにもある。
オトコ社会は強い相手(しかも同性)に媚び、応援するが、
弱い相手(病人・年寄り・オナゴ・子供)には冷たいのだ。
未だに「強いのがいい」と思っているからナサケナイ(情け無い)。
(もちろん実際に弱いのは、そんなオトコの心だが・・・)

穴から直接ウン○が外に飛び出るのだから、
ペーパーを使うと(環境に)迷惑だろう。
ワシは郷に入れば郷に従う(時もある)
インド式に左手で水のみで始末してみた。
尻の割れ目に沿って水を流すときいてたが、
これが難しくてビショビショになってしまった。

それにしても水で流すとはいえ節水だ。
床にイロイロ散らばるだろう。
裸足の人もかなり多いこの国は、
「おおらか」でないと暮らせないなぁ。


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