事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

発砲 1発目 ~仁義の墓場

2007-09-17 | 読者レス特集

Makarov02 組事務所に発砲、犯人は逃走・夜の山形

 20日午後8時40分ごろ、山形市松波4丁目で、指定暴力団山口組系の事務所周辺を警戒していた捜査員から、銃声を聞いたとの無線連絡があった。事務所があるマンションを調べたところ、同事務所の東側窓ガラスを貫通するなど、計5発の弾丸が見つかった。事務所に関係者数人がいたが、けがはなかった。

 発砲直後、2、3人の男が乗った不審車両が現場付近から走り去ったといい、県警暴力団対策課と山形署は、犯人の行方を追う一方、暴力団同士の抗争事件の可能性が大きいとみて、今月15日、同市城西町2丁目で発生した殺人未遂事件などとの関連を調べている。

 調べによると、銃弾が撃ち込まれたのは、7階建てマンションの3階南東角にある山口組系暴力団の組事務所。窓ガラスを貫通した銃弾の弾道の角度などから、4、5メートル南側の2階建てアパートの2階部分から発射されたとみられる。
 発砲音がした直後、2、3人の男が黒色のセダンタイプの車に乗り込み、山形自動車道山形蔵王インターチェンジ方面に逃走するのが目撃されており、捜査当局は、県内のほか、隣接各県に緊急配備を敷き、行方を追っている。

Jinnginohakaba  山形市城西町2丁目で15日早朝、暴力団関係者の男性が3人組とみられる男に拳銃で胸などを撃たれ、重傷を負う殺人未遂事件が発生。この事件以降、この日銃弾が撃ち込まれた暴力団事務所も警備の対象として県警機動隊などが警戒に当たっていた。

 栃木県内では、指定暴力団住吉会系と山口組系の抗争事件が相次いで発生している。17日夜には、この抗争事件と関連がある栃木県内の住吉会系の関係者とみられる男2人が、山形市内で盗難ナンバーを付けて運転していたとして道路運送車両法違反の疑いで逮捕された。19日夜には福島市内でも山口組系暴力団の関係者が何者かに拳銃で撃たれて軽傷を負っており、栃木県で発生した抗争事件が東北地方に飛び火した可能性もあるとみられている。
【2003年5月21日付山形新聞】

 山形も物騒になってきたものだ……という意味でこの記事を採りあげたわけではない。山口組VS住吉(今は連合って言わないのかな?)会の抗争自体はむかーしからやっていたわけだし、週刊大衆やアサヒ芸能あたりの方がはるかに突っ込んだ取材をしているだろう。ではなんで?

 答は、山形新聞が勝手に“暴力団事務所が入るマンション”と名付けた(笑)このマンションに、わたしのメルマガの読者が住んでいるから。なかなか無いよこういう偶然は。それでは文字通り現場からの中継をお届けします。

Ginngidvd  一昨日の木曜日の午前中、いつものように外に一歩出た瞬間、目に入ってきたのは20数人の盾を持った機動隊員と警察の白ワゴン数台が並ぶ異様な光景!どひゃー。
「やれやれまたか……」

……実はこんなシーンに出くわすのはこれがもう3度目。後でニュースで知ったのですが、この日の早朝、山形市内で暴力団関係とみられる発砲事件があり、ヤーさんの組事務所がある集合住宅に住む私のトコロは、真っ先に厳重な警戒態勢が敷かれた模様でした。
事件とこの組事務所の関与はまだハッキリわからないようですが、この建物に面した前面道路は封鎖し、しっかり検問。

 この集合住宅を訪れる人に対しては、氏名、訪問先の確認はもちろん、入念なボディーチェックもあったそうな。← そこまでするか。
うちのオヤジはといえば、「よ~し、目出し帽かぶってモデルガンちらつかせて玄関通っちゃおうかな♪」と、おちゃめな事言ってるし(笑) ← 本当に実行したらシャレにならんぞ。

……とまあ、結構スリリングな住環境ではあります(笑) ←笑い事じゃないって。
ちなみに現在も多少規模を縮小しつつも24時間体制で、一般の善良な市民を守るため警察が張り付いておりますよ。
【5月17日(土)17:06】

……この夫婦が善良な市民かはともかく(笑)、この時点でマンションは厳戒態勢に入ったわけだ。なんで山口組が、はっきり言ってこんな歓楽街から離れ、官庁を目の前にしたマンションに居を構えたかは判然としないが、住民にとってはえらい迷惑だよなあ。
 で、今回の発砲につながるのだけれど、県警どうやら大失態である。
PARTⅡに続く。

画像はやくざ映画シリーズでいきます。
一発目は、救いのないことこの上ない「仁義の墓場」
渡哲也は、一種のフリークスである主人公、石川力夫を徹底的にリアルに演じた。その狂犬ぶりは現在の社長っぷりからは想像もできないくらい。深作欣二演出もクール。多岐川裕美がこれ以上はないくらいの不幸な娼婦を演じて泣かせる。

冒頭の拳銃は現在あちらの業界におけるベストセラー(T_T)マカロフ

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最強のおつまみとは何か 3皿目~30代以降

2007-09-17 | 食・レシピ

Summer_kimo  

2皿目よりつづく。

結婚して何が変わったかといえば、これはもう3食キチンと食べる規則正しい生活になったこと。それどころか、妻が出産のために実家に帰った時など、まずはそちらで夕食をいただき(遠慮はするが、断るわけにもいかない)、帰ってから、自分の家でまた食べたりするので(この辺、いろんな気をつかっていることが察していただけるかと)、めちゃめちゃ体重は増した。良くない。

 そんなときでも、私は職場の帰りにスーパーに入り、おつまみを物色する習慣が捨てきれなかった。この悪癖がいつ頃からついたのかは判然としないが、全く良くないよなあ。

 いつからか私は、自分が人並み(かそれ以上)に酒が飲める、いわゆるいける口であることに気がついていたし、同時に“酒はそれだけで飲んでいればよく、つまみなどは塩でいい”というような星一徹タイプではない、いわゆるくいしんぼであることも自覚していた。何よりも、おそらくアル中といっていい自分(「今夜、すべてのバーで」の号参照)は、とにかく酒が好きだし、お惣菜やお刺身をつまみにウイスキーをあおるのが至福に感じられる以上、これからもスーパー通いを続けるんだろう。本当に良くない。

「えーっ!ホリさんスーパーでつまみ買て行ぐな?」
「……うん。」
ここから周りの連中の反応は二つに分かれる。

①「そーんだーの女房さ買わせればいいじゃん」そんなマッチョなマネができるもんか。
②「そーんだーの女房さ買てもらえばいいじゃん」ん、正論、のような気もする。結果的にはおんなじことだけど。

 確かに私は「酒さえ飲めばいい人なのに」と妻が言うように、飲んだ方が温厚になる傾向はあるけれど(反論もあるだろうが)、体重の8割が酒とおつまみで出来ている私に、妻がかきフライだのハマチの刺身を買ってきてくれるわけもなし。

Topitemkatsuoimg5 「買うなはいーんでも、いづ食べんな?」
そうなのだ。問題はそこなんだよな。私が他人と違うなーと実感するのは、みんなは「晩酌」として飲んでいるのに、私は“夕食をきちんと食べ”てから、妻子と一緒に布団に入るものの、彼らが寝入ったとみるや、ムクッと起き出し、一人で深夜まで飲んでいるのだ。太って当然。子どもからは「お父さんの部屋、公民館の臭いするー」と言われるぐらい酒臭い生活。情けない。

 なんとかしなきゃなあ、と思いつつも、いつも飲んでいるジョニーウォーカーの赤ラベルが、酒のやまやではついに980円に値下がりしたこともあり(もちろん、金がかからなくて助かるのではなく、その分、飲む量が増えただけである)、明日もまた、ウエルマート新橋店のレジ係佐藤雪子さん(美人)にカツオのたたきだの鰻の肝焼きだのを差し出すのであろう。こりゃやっぱり病気である。

 あ、最強のおつまみの話になってないか。量的にはやっぱりスルメだろうが(何百枚焼いたことであろう)、家中に匂いが充満してしまう欠点と、近頃ジューシーなスルメに出会っていないこともあり、やっぱり、佐藤雪子さんの笑顔ってことにしとくかな(笑)。 

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最強のおつまみとは何か 2皿目~20代

2007-09-17 | 食・レシピ

Market_yaki  PARTⅠでは題名に反しておつまみがさきイカしか出てこなかったけれど、十代までは“酒はおつまみと共に味わうもの”という概念すらなかった。ひたすら“消費”し、“酔っ払い”、“排泄”するだけだったわけ。

 ただひとつ、川崎の裏街で初めて食べた牛タンを生ビールで流し込んだときは、あー世の中にはこんなにおいしいものがあるのか、とびっくり。ビールをジョッキで飲むことも含めて、これには感動した。

Nezameya  鶴岡市立の中学校に赴任して、まず私がカルチャーショックをうけたのは、この辺の連中は全て「大山」なる酒を飲むことだった。前回お伝えしたように、初孫で育った私にとって、あれよりも甘口の酒があるとは、と。今でもちょっと惜しいと思うのは、学校の近所には寝覚屋(ねざめや)半兵衛という麦切り(これも鶴岡に行くまで知らなかった存在)の老舗があり、大山と一緒に高名な麦切りを食べたら、それはオツなものだったのではないか、ということ。もっとも、蕎麦屋で冷酒を飲むなど20年早いわボケ、と怒られそうだが。

 わずか1年で遊佐の中学校に転勤になり(えーと、いろいろありましたから……ストライキやら事故やらで文書訓告1回、口頭訓告2回……今思えば恐ろしい新採である)、学校の歓迎会が「小幡」なる今はなき料亭で開かれた。酒田の旧色街にある、老舗である。

 親父は「ほー、オバタで飲むなが」としきりに感心していたが、本格的な料亭初体験はここ。で、結論。窓越しに観る酒田港の夕焼けや、さぞや名のある掛け軸、高価そうな食器……これらは(少なくとも当時の)私にはなーんの意味も持たなかった。もっと食わせろ!もっと飲ませろ!とだけ考えていたのである。今でもその傾向はあるけどさ。

Img02  この時期、最も哀しかったおつまみは、身辺がすっかり淋しくなった独身のクリスマスイブ、学校帰りに八幡の酒屋で買ったサントリーホワイトで食べる赤貝の缶詰。でこいつのおかげで歯の詰め物が取れたりして……ううう(泣)これは辛かったな、色んな意味で。

 最も輝かしいおつまみは、職場の先輩から教わったヤツ。
「いーですか、まずスルメを用意します。」
「はい。」
「これをちぎって、一晩酒のなかに漬けてください。」
「え……日本酒にですか?」
「そーです。次の日、かるくあぶっていただいて下さい。これは、いいですよ。」
「……やってみます。」
酒飲みの世界、奥深いなーと感服。さすが夕方になると手が震え出す人は違う(笑)。

3皿目につづくっ!

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最強のおつまみとは何か 1皿目~成人まで

2007-09-17 | 食・レシピ

Shouhin100347  アルコールに関して、私は特にルーズに育てられたように思う。小学生の頃、剣道のスポーツ少年団(父親が有段者だったので無理矢理入らされた)の初稽古が終わった後、公民館の和室に正座させられた胴着姿のガキンチョたちに、いきなりおとそが振る舞われたのはどうしたもんだろう。今思えばパブリックな場で日本酒に接した初めての機会だった。まさか、このご時世に今でもやっているんじゃないだろうが(いや、ウチの地区ならあり得る……)。

 家のなかでは、ちゃぶ台の前にぺたんとすわった大酒呑みの祖父に「ほれ」と誘われておチョコを舐めることはしょっちゅうだったし、農繁期で家中が出払っている時など、ビールにカルピスを加え「ぐ。やっぱりにがい」とめげたり、当時使っていた黄色いオバQのお茶碗に、台所の棚から一升瓶を持ち出してそぉーっと注ぎ「くひー。……あまい」と唸ったりしていた。嫌なガキ。

 中学の時分は、なぜか酒からは遠ざかっていたが(当たり前だ)、高校に入ってから持ち前の好奇心が再び首をもたげてきた。酒田大火のことをルポした「週刊新潮」には〈とにかくこの町では日本酒は贈答用にしろ飲むにしろ、全て『初孫』なのである〉と結んであった。そのとおり。で、ウチにあるその初孫を使って一種のカクテルを作ろうと考えたのだった。日本酒のカクテル。馬鹿である。

 その作品の一つが【初孫3:1ポンジュース】という愛媛農協もこんな飲まれ方をするとは想像もしなかったであろう日本酒のオレンジジュース割り。

Pom1 「うん、結構いける。」と納得し、学校で同級生たちに勧めてみる。
翌日「ひろしーっ!馬鹿野郎!!」と怒られたが、でも一応みんなやってみるところが高校生である。

 アパートに一人暮らしのときには、飲もうと思えばまわりを気にせずいくらでも飲める環境だったのに、それこそ胃液吐くまで飲んだ覚えはない。学生って普通そうした通過儀礼があるはずなんだが。しかしこれは自分でもエライと思う。堀家の場合、農家らしく生活費の仕送りは月々ではなく、夏休みが終わって東京に出るときに「これ、正月までの分。」とどーんと20数万円を渡されていた。これで家賃から帰りの切符まで全て自分で手当てするルール。酒に溺れていたら、完全に干上がるところだったのだ。

 それにしても、母親は私に金を渡すとき「これはの、飲むための金でねーぞ。食べるための金ださげの。」と念を押すわりには、田舎から送られてくる段ボール箱の米の上には、いつもさきイカがのってたのは、何でだったのかなぁ。

※当時は食管法が厳格に運用されていたため、米を個人宛に運送会社で運ぶのは違法だったのかもしれない(このへん、知ってる人は情報を)。でも、他の奴らに送られてくる段ボールの中にもさきイカが入っていたのは本当に不思議。ひょっとして、さきイカと一緒だとお米に虫がつかないとか(笑)。

2皿目につづくっ!

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きれいな手で。

2007-09-17 | ニュース

藤島・一家殺傷 義理の息子を逮捕

殺人容疑 家族の将来悲観?
藤島町藤島の自宅で6日未明、無職天羽一郎さん(87)ら家族4人を殺傷したとして鶴岡署は同日、殺人容疑などで、元小学校校長で一郎さんの義理の息子(65)を逮捕した。調べに対し、息子は「家族の将来が不安だった」などと供述、自分で手首などをカッターナイフで切っていることから、将来を悲観して無理心中を図ろうとしたとみられる。

Kanp3 一方、司法解剖の結果、殺害された一郎さんと妻のまつ子さん(82)の死因は脳挫傷と判明。二人の傷口や息子の供述などから、円形状の鈍器で頭部を殴打したのが致命傷になったとみられ、自宅から類似する木製品などを押収した。首を締められて酸欠状態になり、意識不明のまま治療を受けていた息子の二女の詠子さん(30)は意識を取り戻したという。

調べによると、息子は同日午前2時45分頃、一郎さん夫妻の首をひも状のもので絞めた上、鈍器で頭を殴るなどして殺害し、長女の貴子さん(32)と詠子さんも同様に殺害しようとした疑い。貴子さんは殴られてけがをしたが、一階南側居間のサッシ戸を割って逃げ、隣家に助けを求めた。

息子は田川地区の小中学校で教員生活を送り1996年、羽黒町内の小学校長を最後に退職、すぐに藤島町内の文化施設の初代館長となり、去年8月末で退職した。数年前に脳梗塞を患い、館長を辞職した翌月から精神科に通院。詠子さんは数年前から精神的に不安定な状態が続いていたという。ことし10月上旬には息子の妻(59)がくも膜下出血で入院している。

事件前、息子は知人に「高齢の両親がいるが妻も自分も体調がよくない。娘のことも心配だ」と漏らし、特に妻の入院以降はふさぎ込むことが多かったらしい。
2001年12月7日付山形新聞朝刊

Im002334 新聞記者とは神の如き職業である。事件の翌日にはその背景から容疑者の通院歴、娘の精神状態までを調べ上げ、おまけに全県下にそれを知らしめてくれるのだ。ありがたいことである。しかも“人権に配慮し”て肝心の容疑者の名前だけは出さないわけだ。まったく、神様もびっくりの慈悲深さである。

……皮肉はとにかく、この「義理の息子」は、詳しくは書けないが私の同僚だった人だ。田川の学校(もうバレバレだが)に新採で入ったとき、「あー、やっと酒田の人が来てくれた。」と喜んでくれた人だったのである。その学校では、酒田出身者は彼と私だけだった。
「田川の人と合わせていくのはたいへんだよ」確かに。

 彼は確か酒田から田川に婿に入ったはず。まことに如才ない人で(このあたりが酒田人らしい)、共産党系の活動家たちとゴリゴリの反動校長(保守系の雑誌に『日本人は褌をしめているのが……』などと投稿するような人物だった)の壮絶なバトルの場だった職員室でも、組合員でありながら管理職のウケもいいという際どいスタンスに立っていた。校長になった、という話を飽海に私が異動してから聞いたとき、さもありなん、と思った憶えがある。

 きれい好きな人でもあり、「スティックタイプのノリはないかな、ホリさん」とリクエストされたことがある。
「私はね、手を汚すのが大っきらいなんだ。」彼が言うと、若手の女教師たちが「やっぱりねー」とか呟き合っていた。

 その夜、彼はその清潔な手を、どんな思いで血まみれにしたのだろう……。

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