PARTⅠでは題名に反しておつまみがさきイカしか出てこなかったけれど、十代までは“酒はおつまみと共に味わうもの”という概念すらなかった。ひたすら“消費”し、“酔っ払い”、“排泄”するだけだったわけ。
ただひとつ、川崎の裏街で初めて食べた牛タンを生ビールで流し込んだときは、あー世の中にはこんなにおいしいものがあるのか、とびっくり。ビールをジョッキで飲むことも含めて、これには感動した。
鶴岡市立の中学校に赴任して、まず私がカルチャーショックをうけたのは、この辺の連中は全て「大山」なる酒を飲むことだった。前回お伝えしたように、初孫で育った私にとって、あれよりも甘口の酒があるとは、と。今でもちょっと惜しいと思うのは、学校の近所には寝覚屋(ねざめや)半兵衛という麦切り(これも鶴岡に行くまで知らなかった存在)の老舗があり、大山と一緒に高名な麦切りを食べたら、それはオツなものだったのではないか、ということ。もっとも、蕎麦屋で冷酒を飲むなど20年早いわボケ、と怒られそうだが。
わずか1年で遊佐の中学校に転勤になり(えーと、いろいろありましたから……ストライキやら事故やらで文書訓告1回、口頭訓告2回……今思えば恐ろしい新採である)、学校の歓迎会が「小幡」なる今はなき料亭で開かれた。酒田の旧色街にある、老舗である。
親父は「ほー、オバタで飲むなが」としきりに感心していたが、本格的な料亭初体験はここ。で、結論。窓越しに観る酒田港の夕焼けや、さぞや名のある掛け軸、高価そうな食器……これらは(少なくとも当時の)私にはなーんの意味も持たなかった。もっと食わせろ!もっと飲ませろ!とだけ考えていたのである。今でもその傾向はあるけどさ。
この時期、最も哀しかったおつまみは、身辺がすっかり淋しくなった独身のクリスマスイブ、学校帰りに八幡の酒屋で買ったサントリーホワイトで食べる赤貝の缶詰。でこいつのおかげで歯の詰め物が取れたりして……ううう(泣)これは辛かったな、色んな意味で。
最も輝かしいおつまみは、職場の先輩から教わったヤツ。
「いーですか、まずスルメを用意します。」
「はい。」
「これをちぎって、一晩酒のなかに漬けてください。」
「え……日本酒にですか?」
「そーです。次の日、かるくあぶっていただいて下さい。これは、いいですよ。」
「……やってみます。」
酒飲みの世界、奥深いなーと感服。さすが夕方になると手が震え出す人は違う(笑)。
3皿目につづくっ!
初孫自体も今や川南地区にうつったもんなあ。