陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

しあわせなキンギョ、しあわせなわたし

2009-01-13 22:38:36 | weblog
正月に初詣の帰りにでも金魚すくいをさせてもらったのだろう、キンギョの入った袋を下げて歩いている子供の姿を何人か目にした。

人間の引っ越しとはちがって、キンギョの場合、あらかじめ水槽の用意がしてあって、すくってきたキンギョを待っているなどということはほとんどないはずだ。すくったのはいいけれど、さて持って帰って何に入れようか、というところから始める人がほとんどだろう。

こういうときネットというのは便利なもので、何の準備も予備知識もなくても、とりあえずどうしたらいいか、何をそろえたらいいか、検索すればひととおりのことがわかるようになっている。わたしがキンギョを飼い始めたときは、パソコンの常時接続にしてまだ日も浅いころで、もしネットがなかったら、たちまちキンギョを死なせていたかもしれない、とあとになって何度も思ったものだった。

ともかく、キンギョにとって決して良い情況とは言い難い、露店の水槽から追いかけ回されて連れてこられ、何の準備もしていない、下手をすればカルキ抜きさえしていない容器のなかへ投げ込まれるのである。まさにキンギョとしては過酷な運命としか言いようがない。

キンギョ飼いとしてのキャリアも七年になり、それが正しいかどうかはともかく、自分なりの方法も定まってきた。その昔「金魚的日常」という文章も書いたことがあるが、実際、たかがキンギョと言っても、世話をするのはやはり大変で、手探りで、うまくいったり失敗したりしてきたのだ。

夏に病気が蔓延し、当時、過密飼育していた水槽のキンギョの半数を殺してしまったこともあるし、逆に冬場、急にサーモスタットが働かなくなり、加熱しっぱなしになった結果、水槽が温泉状態になり、一晩で五匹のキンギョを昇天させてしまったこともある。浮いているキンギョたちの姿にぎょっとして温度計の目盛りに気がついても時すでに遅く、なんともいえない思いで温泉と化した水槽を片づけたことを思い出す。

何度も病気になったし、治ったこともあるが、治療用水槽の底で、体を曲げて横になったまま、それでも一週間、二週間と生き続けるキンギョの最期を、なすすべなくみとどけたことも何度もあった。ウチで生まれたキンギョも三代目になるが、ずいぶん死なせたことを考えると、ときに自分が何をやっているのかと思う。

ときに「アンタのところのキンギョはしあわせよ」と言われることがある。
人によっては金魚すくいで連れて帰っても、エアポンプさえない、ろくに水換えさえしてやらない状態でほったらかしているケースだってあるのに、というわけだ。
そんなことを言ったところで、現実に何匹も殺しているのだから、ほったらかしにしているのとどれほどの差があろう。

おまけにキンギョにとって、いったいどういう状態が「しあわせ」と呼べるのか、キンギョならぬ身としては、わかりようがない。

わたしのよく行くペットショップは、和金(ただ赤いだけの何の変哲もないキンギョ。当然ウチのキンギョもそれだ)は扱わないのだそうだ。というのも、ペットショップが仕入れる和金というのは、ほかの大型熱帯魚のエサでもあるからなのだそうだ。店によっては、一方で生き餌として飼育しつつ、仕入れ値の何十倍かの値段で、安価なキンギョとして売っているところもあるらしい。行きつけのペットショップのお兄ちゃんは、そういうことに矛盾を感じるから扱わないのだとか。

ただ、ほかの熱帯魚にエサとして食われるのと、ペットとして飼われ、そこで病気になったり、事故に遭ったりして死ぬのと、実際どちらが「しあわせ」と言えるのか、わたしにはよくわからない。

小学生のまだ低学年のころだったと思うが、『ドリトル先生』のシリーズが好きで、全巻を飽きずに繰りかえし読んだ。いまとなってはどの本だったかも覚えていないのだが、水族館の魚が、ふるさとの海の記憶を懐かしみ、自由をこいねがいながらドリトル先生に話して聞かせ、恋しがって泣くというエピソードがあった。だが、水族館の魚がほんとうにそんなことを考えているか、それは当の魚でもなければわかりはしないだろう。

魚というのは一度にものすごい数の産卵をするものだが、裏を返せば個体1匹生き延びさせようと思えば、それくらいの卵が必要なほど、海にせよ川にせよ、自然のなかで生き延びるのは過酷であるにちがいない。はたして水族館の魚がドリトル先生に出てくる魚のように故郷の海を恋しがるものなのだろうか。

さらに、キンギョなど観賞魚の多くは、人間に飼われることを前提として品種改良を重ねたもので、もはや「自然」とはずいぶん隔たってしまっている。仮に彼らに故郷の記憶があったとしても、それは水槽だ。キンギョは泳ぐのがヘタだし、フィルターのあいだのような細い隙間にはさまってしまうマヌケなことも平気でする。野生の生き物には考えられない危機感のなさである。彼らはもはや「自然」(もはやわたしたちの周囲では、いったい何を「自然」と呼ぶかはむずかしいところなのだが)のなかでは生きてはいけない。

おそらくキンギョが「しあわせかどうか」と考えるのは、たんなるキンギョの擬人化に過ぎず、意味などないことなのだろう。

水がきれいで、ヒーターのおかげで水温は25℃、フィルターも作動して酸素が十分送り込まれ、水草も緑豊かにたゆたっているのを見ると、キンギョもなんとなく楽しそうに見える。さきほど「擬人化」と書いたが、これは「擬人化」ならぬ「擬魚化」と言った方が適当なのかも知れない。もし自分がキンギョで、このなかにいればきっとしあわせだろう、と思うのだろう。
あるいは逆に、こんなせまいところに閉じこめられて……と思うのも、この「擬魚化」のなせるわざなのだろう。
おそらくキンギョはそんな尺度と無縁のところで生きている。

そう考えると、キンギョと暮らしてしあわせなのは、キンギョではなくわたしなのだ。世話をしてもらってしあわせなのだ、と考えるのも、自由を制限されて、あるいはへたくそな飼育の犠牲になってかわいそう、と考えるのも、それは自分を「擬魚化」して考えているに過ぎない。

それでもこの「擬魚化」のおかげで、わたしはほんの少し、人間である自分から離れることができる。それがキンギョのためになっているかどうかは定かではないが、まちがいなくわたしの毎日を、ほんの少し、豊かなものにしてくれている。

いてくれて、ありがとう。