陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

女は感情的か

2009-01-30 23:08:07 | weblog
ときどき「女というのは感情的で……」といった物言いを耳にすることがある。もちろん生物学的には女性に分類されるわたしとしては、そういう物言いは決してうれしくはないのだが、ともかくそういう相手の真意を確かめてから反応しても遅くはあるまいと思っている。

相手はわたしにケンカを売ろうとしているのか、そう言いたくなるような出来事があったのか。相手の含意している「女」が、わたしを指しているのか、わたし以外の具体的な誰かが想定されているのか、あるいは「女」一般を指しているのか。さらに、相手がふだんから女性蔑視的な発想をしている人物であるとか、ステレオタイプ的な物の見方考え方をしがちな人物であるとか、ふだんのその人としてはむしろ異質な発言であるとか。たまたま虫の居所が悪かったのかもしれないし、偏頭痛がひどかったのかもしれない。まあ考慮に入れておかなければならないことはたくさんあるだろう。

なによりも、即座に反応してムッとすれば、それこそ相手の思うつぼではないか。

「女」というくくりも雑な話で、「女は~」といういい方をされると、同じ女であっても、藤原紀香の考えていることより、男である自分の弟の考えていることの方がわかるぞ(もうずいぶん顔を合わせてないが)、と思う。
ただ、性別を除けばほとんど共通点のなさそうな藤原紀香はさておき、日常のつきあいのある知人関係でいくと、相手が女性であれば、「ああ、その感じは説明されなくてもわかるな」と思うことはある。逆に男性であれば、自分のまったく予想しなかったような反応が返ってきて、ああ、男の人というのはこんなふうな考え方をするものなのか、と思うことも。

けれどもそれは、たとえば背が高い人と背が低い人の発想が異なり、その人の経済状態によって発想が異なり、国籍・人種によって発想が異なり、その人がたどってきた生育歴によって発想が異なり……といった、おびただしい要素のひとつでしかないだろう。

「男/女」というのも、その人の基本的な感じ方・考え方や行動を決める要素のひとつであることにはまちがいない。では、「女は感情的」という傾向はほんとうにあるのだろうか。

中学のころ、こんなことがあった。
ある女の子がわたしの行動に対してイチャモンをつけたのである。わたしはそれが単なる言いがかりでしかないことを、時系列に沿って指摘していった。すると彼女は泣き叫びながら、「そんなこと理屈じゃない!」とのたもうたのである。つくづく、感情的な女はいやだと思った経験である。

だが、そういうわたしも、いっときの感情にまかせて、あとでほぞをかむようなことを何度もしでかした。そのたびに、またやってしまった、自分はなんでこんなに学習能力がないのだろう、と屈辱をかみしめたものだ。

だが、わたしが感情的になったのは、わたしが女だからだろうか。
わたしはそうは思わない。

たとえば会議などの席で、少しでも批判的な意見がでると、噛みつくような反応を見せる男性は「感情的」ではないのか。すれ違いざま、肩が触れただけでケンカを始める男たちは「感情的」ではないのか。電車のなかでかけている電話を注意され、いきなり怒り出す男性は「感情的」ではないのか。

確かに、さまざまなできごとのなかで、「女は感情的」と言いたくなるようなことがあったのだろう。けれども「女は感情的」という言葉が生まれ、その言葉によって、今度は逆に出来事が説明されるようになる。自分は女だから感情的になるのだ、あいつは女だからすぐ感情的になるのだ。そうして、いつのまにかそれが「真実」ということになってしまう。

だが、わたしたちが人と話をするのは、結局のところ、話すことによって相手と合意を形成することにあるのではないだろうか。
自分の考えばかりを押し通すのではなく、相手の反対を受け入れながら、少しずつ見方を変えていく。対話のなかで、それぞれが知らなかったことを見つけ、形成していくために対話を重ねているのであるとすれば、それはできるだけ筋道の通ったものでなければならないだろう。たとえ感情のことを話題にしているときでも、自分ではない相手の感じ方を知るためには、感情にまかせていては、話はどこにも行き着かない。

感情のある人は、ということは、つまり誰だって感情的になりうる。だが、要は、感情的な自分をどう扱うか、という問題なのではあるまいか。