陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

お金と正義

2009-01-18 22:44:12 | weblog
子供、それもかなり小さい、小学校に上がるか上がらないかのころだったが、道ばたにお金が落ちていたら、かならず拾って交番に届けていた。お金といっても十円玉や、せいぜい百円玉である。小さいせいで地面に近いからなのだろうか、大人になってからは見たことがないのだが、子供のときはときどき拾っていたような記憶がある。当時の方がお金というのはよく落ちていたのだろうか。

見つけると、行き先を変更してまっすぐ交番に向かう。おまわりさんに、「これ、落ちてました」と差し出すと、たいてい「どうもありがとう」と言って、おまわりさんは自分の財布を取り出して十円くれた。名前もどこで拾ったかも聞かれなかったはずだ。もちろんもらえる十円がうれしくないわけではなかったのだろうが、それ以上に正義を遂行したような気がして、意気揚々と帰ったものだ。もちろん家に帰ると真っ先にそのことを報告した。

四歳や五歳ぐらいの子供にとって、なかなか「自分は正しいことをした」と正々堂々、胸を張って報告できる場面に遭遇することはないのだ。お金を拾って届ける、というのは、正義感を発露できるような、数少ない場面だったように思う。

こんなことを思い出したのも、先日、こんな経験をしたからだ。
百円均一の店で買い物をしたときのこと。ハンドソープの詰め替えだのレンジマットだのガムテープだの重曹だの、ごたごたしたものを七点買い、カゴを使わずに積み重ねてレジに置いた。

レジを担当していたのは高校生ぐらいのバイトのお兄ちゃんである。バイト君は「六点のお買いあげで630円になります」という。重曹の下になっていた「着火マン」に気がつかなかったらしい。だから、わたしは「七つ買ったから735円ですよ」と言って、それだけのお金を払ったた。黙っていたら105円儲かったのかもしれないのだが、そこは正直に申告したのである。すると、バイト君、品物を何度も何度も数え直し、焦りながらレジを打ち直すと、すいませんでした、と何度も謝ってくれた。

それだけの話、735円の買い物をして、735円払ったというだけの話なのである。
なのに、店を出た自分の内に「なんだかちょっと良いことをした」という意識があるのだ。ちょうど、十円拾ってそれを届けたときのように。その「正しい」意識はどこからきたのだろう、とひどく気にかかった。

こうしたまちがいは時として起こる。もちろん打ち間違いで、こちらが損をしているときもある。そういうときは、些細な金額でも訂正を求めることもあるし、面倒になってまあいいや、とそのままにしてしまうこともある。だが、向こうが間違えた結果、こちらに得になっているときは、わたしが単に小心なだけかもしれないのだが(笑)、妙に落ち着かない気持ちになって、かならず訂正を申し入れてしまうのだ。そうして、その結果、ちょっとだけ良い気分になる。

たかがこれぐらいのことで、良いことをしたという気分になるのは、単にわたしが小さい人間(笑)というだけのことなのかもしれないのだが、安岡章太郎も同じようなことを短篇のなかで書いていたような記憶があるのだ。タイトルも記憶にないし、短篇だったか、長篇のなかの一エピソードだったかどうかもわからないのだけれど、だいたいこんな内容のものだった。

主人公は中学生ぐらい。親に頼まれておつかいに行く。買い物をして、五千円札で払っておつりをもらった。店を出て、おつりをよく見ると、七千円あまり。店の人が五千札と一万円札をまちがえたのだ(昔は両方とも聖徳太子だったのだ)。主人公は葛藤したあげく、帰りかけた道を引き返して、店の人に申し出る。店の人は、少し驚いたような顔をしたが、すぐにぱっと明るい顔になって、お礼を言ってくれる。主人公はとても善いことをしたような気になって、颯爽と家に帰る。お母さんに意気揚々とそのことを報告すると、最初から一万円札を渡したんだよ、馬鹿な子だね、と叱責される。いまさら返してくれとも言えないし、主人公は一転、情けない気持ちになる。そこから振り返ってみれば、店主の表情にもまったく別の解釈が成り立ってしまう……。

額面はちがってるかもしれないのだが、ともかくそんなエピソードだった。
この話は、ひとがいかに些細なことで「善行」を施したような気分になるか、ということを、皮肉っぽく描いている。そうして、それが実際、相手に対して真の「善行(利益をもたらす)」となった時点で、いかに後悔してしまうか、ということまで。わたしたちの意識を実にうまくすくい上げていると思う。

わたしが一点少なく計算されて、「ちがってますよ」と申し出た。
わたしが払った額は、あたりまえの額だ。
にもかかわらず、わたしは「ちょっと良いことをしたような気分」になった。そこにはせこい話だが、黙っていたら百五円儲かった、という計算が働いたにちがいない。自分はその利益を失っても、正当な商取引をすることを選んだ、ということからくる「良いことをしたような気分」、正義感であったにちがいない。子供時代に十円玉を届けたときも、まったく同じことだ。

お金のからまない、道を譲ったり譲られたり、高いところの物を取ってあげたり、後ろから来る人のためにドアを開けておいてあげたり、わたしたちは日常、ちょっとした心遣いを、他人のためにしてあげたり、してもらったりする。何かしたときは一瞬、ああ、自分は良いことをしたな、と良い気分になる(わたしだけか)し、してもらったときは、どうもありがとう、と、これまた良い気分になる。だがどちらにしてもそれが「正義感」に結びつくことはない。そういう生活のなかの心遣いや思いやりは、「正義」というカテゴリには入ってこないように思うのだ。

コインゲームをする人は、かならずコインを持っていなければならない。コインゲームを持っていることがゲームに参加する資格だし、コインを使うことは同時にゲームをプレイすることでもある。そうしてプレイヤーはコインとして行動する。コインはルールにのっとって渡したり受け取ったりしなければならないし、不正に自分のものにしようとする人物は、プレイする資格を失う。

社会でお金を使うときのわたしたちも、まさにこれと同じなのだろう。

そもそもお金というものが出てきたのは、海辺に住む人と山に住む人が、魚とリンゴを恨みっこなしで交換できるような、共通の尺度が必要だったからだろう。けれども、そのものにまったくの価値がないものを、あえて尺度として受け入れ、それに価値があるかのようにふるまうことは、ルールを受け入れ、それに沿って正しく行動する、という宣言と等しいのかも知れない。みんながそのルールに従わなければ、そのゲームは成立しない。だからこそ、強制的にではなく自発的に従うことが求められるのだ。「正義感」というのは、自発的にルールにしたがっているために生まれてくる意識ではあるまいか。

逆に、このルールを逸脱しているがゆえに得をした意識が、現実の利益以上に強まることもあるように思う。

自動改札というのは、子供料金で通過すると、だいたい赤いランプが点灯するようになっている。たまに、どう見ても子供料金に該当しない年齢の人が、子供料金で通過しているのを見ることもある。子供料金で乗車して、いったいどれほどの利益を得ることができるだろう。その人が求めているのは、現実の利益というより、自分が社会のルールを出し抜いた、という意識ではあるまいか。冷静に損失と利益を引き比べてみれば、正規の料金で乗車したほうがどれだけ「得」であることか。