陰陽師的日常

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半世紀前のやらせ(前編)

2009-01-21 23:02:32 | weblog
「やらせ」という言葉がある。
テレビや新聞などで、あらかじめ筋書きが用意してあるにもかかわらず、それが何の手も加えられていない事実であるかのように放映・報道されるものである。

「危険の報酬」をサイトにアップするために、1950年代のアメリカのテレビの本を読んでいたら(有馬哲夫『テレビの夢から覚めるまで ―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史―』国文社)、1950年代の終わりには、このやらせをめぐって大きな問題が起こっていたことが書かれていた。今日はその話。

《クイズ・ショウ》という1994年の映画をご存じだろうか。ロバート・レッドフォードが監督し、《シンドラーのリスト》で主演したばかりのレイフ・ファインズが主演した映画である。コロンビア大学助教授のチャールズ・ヴァン・ドーレンが、クイズ番組『トウェンティー・ワン』で事前に答えを教えてもらって勝ち続けた、というやらせをめぐる映画である。

ドーレンは1959年、下院立法監視委員会・連邦通信委員会合同の公聴会で、そのときの模様をこのように証言している。
 ……彼(『トウェンティー・ワン』のプロデューサー、アルバート・フリードマンは、二人だけで話せるように寝室(フリードマンのアパートの)に連れていきました。そして、今のチャンピオンのハーバート・ステンペルは不敗の回答者だ、なぜなら物事を知り過ぎるくらいよく知っているからといいました。ステンペルは不人気で、番組がだめになるまで対戦者を右に左になぎたおしていると彼はいいました。彼は、彼に対する好意として、私が彼と取り決めをして、ステンペルと互角に渡り合い、それによって番組の価値を高めてはくれないかといいました。私は助けを受けずに、正直に番組でやらせてほしいと頼みました。彼はそれはできないといいました。ステンペルは知り過ぎるくらい物知りだから、私が彼を負かすことはあり得ないだろうと彼はいいました。彼はまた、番組はエンターテイメントに過ぎず、クイズの対戦者に手を貸すのは普通に行われていることだし、ショー・ビジネスの一部に過ぎないといいました。もちろん、そういうことは事実ではなかったのですが、私はたぶん、彼のいうことを信じたかったのです。
(『テレビの夢から覚めるまで ―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史―』)

証言でドーレンが言うように、ほかのクイズ番組でも同種のことは普通に行われていたのだ。この問題を追求されたプロデューサーであるフリードマンは、ほとんど罪悪感を感じることもなく、このように証言している。
国家の重責をになう人物たちが、たいてい「ゴースト・ライター」を雇っていて、自分の演説を書かせたり、多くの場合、本さえ書かせたりしているとわかったとして、それはショッキングなことでしょうか。

クイズ番組の送り手の側は、あくまでもショーと考えていた。ショーであるならば、台本があり、演出があり、リハーサルをしていて、何の不都合があろう、というわけである。ところが視聴者はそう思っていなかった。だからこそ、政府機関まで巻き込んだ大問題になったのである。

そもそもクイズ番組というのは、ラジオの放送時間の延長にともなって、その穴埋めのために急増したという経緯がある。低予算で簡単に作ることができるクイズ番組は、制作側から見れば大変お手軽なものだったが、みんなで答えを考え、一体となって参加できることから、聴衆には人気があったのだ。

50年代半ばになって、テレビでもクイズ番組の制作が検討されるようになった。視覚的要素に乏しいクイズをどうテレビで制作するか。
それに解決を与えたのが『六万四千ドルの問題』である。これは当時ラジオで人気のあった『六十四ドルの問題』のやり方をそのまま踏襲した。最初の対戦で勝つと賞金が1ドル、以降勝ち残るたびに賞金が倍になり、最終的に七度勝ち抜くと64ドルを手に入れる。そうしてその賞金を千倍にしたのである。ニューヨーク周辺に中間所得層向けの住宅が三、四軒建つほどの金額だった。スタジオでは回答者をブースに入れるなど、視覚的効果も高めた。そうして話題性のある挑戦者を参加させた。ラジオ番組時代はただのクイズ番組だったのだが、それに演出とシナリオを加えてショーに仕立てたのである。

問題は、そのシナリオに、人気の出そうな出場者だけでなく、競り合いになるように相手にも何問かの答えを教え、最後には人気を得た出場者を勝ち残らせる、ということまで含まれていたことだ。

この『六万四千ドルの問題』は最高視聴率をおさめる番組となった。そうして他のネットワークもそれにならって同様の番組を作り始めたのである。

制作者の側からすれば、演出はどうしても必要だった。
一般の出場者が、初めてテレビに出る。極度に緊張して、簡単な質問にさえ答えられなくなる。答えも聞かされず、リハーサルもなかったら、出場者はほとんど答えられないだろう。実際、そうなって、スポンサーの側からクレームがついたこともあったらしい。
 大切なのは、視聴率だ。番組の視聴率が高ければ、番組のあいだに挿入されるコマーシャルを、それだけ多くの人に見てもらえる。そうすれば、スポンサーの宣伝する商品の売上げが上がる。視聴率を上げるためには、視聴者をひきつける娯楽が必要だ。視聴者は、よほど興味深いものでない限り、生の現実など見たいと思ってはいない。現実などあまり面白いものではない。視聴者が見たいのは、むしろ現実を忘れさせてくれるようなショーだ。テレビとは、ショー・ビジネスなのだ。ショー・ビジネスならば、演出は当然のことだ。

いまから半世紀前、いわば創生期の時代から、番組制作の基本的な姿勢がまったく変わっていないことに驚くほどだ。

明日はこのクイズショー・スキャンダルズ(ひとつの番組のやらせではなかったために、「スキャンダルズ」と複数形になっているのだ)の結末がどうなったか。

もしかしたら「危険の報酬」をアップするのに忙しくて、明後日になるかもしれませんが。

(この項つづく)