陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

お金と正義

2009-01-18 22:44:12 | weblog
子供、それもかなり小さい、小学校に上がるか上がらないかのころだったが、道ばたにお金が落ちていたら、かならず拾って交番に届けていた。お金といっても十円玉や、せいぜい百円玉である。小さいせいで地面に近いからなのだろうか、大人になってからは見たことがないのだが、子供のときはときどき拾っていたような記憶がある。当時の方がお金というのはよく落ちていたのだろうか。

見つけると、行き先を変更してまっすぐ交番に向かう。おまわりさんに、「これ、落ちてました」と差し出すと、たいてい「どうもありがとう」と言って、おまわりさんは自分の財布を取り出して十円くれた。名前もどこで拾ったかも聞かれなかったはずだ。もちろんもらえる十円がうれしくないわけではなかったのだろうが、それ以上に正義を遂行したような気がして、意気揚々と帰ったものだ。もちろん家に帰ると真っ先にそのことを報告した。

四歳や五歳ぐらいの子供にとって、なかなか「自分は正しいことをした」と正々堂々、胸を張って報告できる場面に遭遇することはないのだ。お金を拾って届ける、というのは、正義感を発露できるような、数少ない場面だったように思う。

こんなことを思い出したのも、先日、こんな経験をしたからだ。
百円均一の店で買い物をしたときのこと。ハンドソープの詰め替えだのレンジマットだのガムテープだの重曹だの、ごたごたしたものを七点買い、カゴを使わずに積み重ねてレジに置いた。

レジを担当していたのは高校生ぐらいのバイトのお兄ちゃんである。バイト君は「六点のお買いあげで630円になります」という。重曹の下になっていた「着火マン」に気がつかなかったらしい。だから、わたしは「七つ買ったから735円ですよ」と言って、それだけのお金を払ったた。黙っていたら105円儲かったのかもしれないのだが、そこは正直に申告したのである。すると、バイト君、品物を何度も何度も数え直し、焦りながらレジを打ち直すと、すいませんでした、と何度も謝ってくれた。

それだけの話、735円の買い物をして、735円払ったというだけの話なのである。
なのに、店を出た自分の内に「なんだかちょっと良いことをした」という意識があるのだ。ちょうど、十円拾ってそれを届けたときのように。その「正しい」意識はどこからきたのだろう、とひどく気にかかった。

こうしたまちがいは時として起こる。もちろん打ち間違いで、こちらが損をしているときもある。そういうときは、些細な金額でも訂正を求めることもあるし、面倒になってまあいいや、とそのままにしてしまうこともある。だが、向こうが間違えた結果、こちらに得になっているときは、わたしが単に小心なだけかもしれないのだが(笑)、妙に落ち着かない気持ちになって、かならず訂正を申し入れてしまうのだ。そうして、その結果、ちょっとだけ良い気分になる。

たかがこれぐらいのことで、良いことをしたという気分になるのは、単にわたしが小さい人間(笑)というだけのことなのかもしれないのだが、安岡章太郎も同じようなことを短篇のなかで書いていたような記憶があるのだ。タイトルも記憶にないし、短篇だったか、長篇のなかの一エピソードだったかどうかもわからないのだけれど、だいたいこんな内容のものだった。

主人公は中学生ぐらい。親に頼まれておつかいに行く。買い物をして、五千円札で払っておつりをもらった。店を出て、おつりをよく見ると、七千円あまり。店の人が五千札と一万円札をまちがえたのだ(昔は両方とも聖徳太子だったのだ)。主人公は葛藤したあげく、帰りかけた道を引き返して、店の人に申し出る。店の人は、少し驚いたような顔をしたが、すぐにぱっと明るい顔になって、お礼を言ってくれる。主人公はとても善いことをしたような気になって、颯爽と家に帰る。お母さんに意気揚々とそのことを報告すると、最初から一万円札を渡したんだよ、馬鹿な子だね、と叱責される。いまさら返してくれとも言えないし、主人公は一転、情けない気持ちになる。そこから振り返ってみれば、店主の表情にもまったく別の解釈が成り立ってしまう……。

額面はちがってるかもしれないのだが、ともかくそんなエピソードだった。
この話は、ひとがいかに些細なことで「善行」を施したような気分になるか、ということを、皮肉っぽく描いている。そうして、それが実際、相手に対して真の「善行(利益をもたらす)」となった時点で、いかに後悔してしまうか、ということまで。わたしたちの意識を実にうまくすくい上げていると思う。

わたしが一点少なく計算されて、「ちがってますよ」と申し出た。
わたしが払った額は、あたりまえの額だ。
にもかかわらず、わたしは「ちょっと良いことをしたような気分」になった。そこにはせこい話だが、黙っていたら百五円儲かった、という計算が働いたにちがいない。自分はその利益を失っても、正当な商取引をすることを選んだ、ということからくる「良いことをしたような気分」、正義感であったにちがいない。子供時代に十円玉を届けたときも、まったく同じことだ。

お金のからまない、道を譲ったり譲られたり、高いところの物を取ってあげたり、後ろから来る人のためにドアを開けておいてあげたり、わたしたちは日常、ちょっとした心遣いを、他人のためにしてあげたり、してもらったりする。何かしたときは一瞬、ああ、自分は良いことをしたな、と良い気分になる(わたしだけか)し、してもらったときは、どうもありがとう、と、これまた良い気分になる。だがどちらにしてもそれが「正義感」に結びつくことはない。そういう生活のなかの心遣いや思いやりは、「正義」というカテゴリには入ってこないように思うのだ。

コインゲームをする人は、かならずコインを持っていなければならない。コインゲームを持っていることがゲームに参加する資格だし、コインを使うことは同時にゲームをプレイすることでもある。そうしてプレイヤーはコインとして行動する。コインはルールにのっとって渡したり受け取ったりしなければならないし、不正に自分のものにしようとする人物は、プレイする資格を失う。

社会でお金を使うときのわたしたちも、まさにこれと同じなのだろう。

そもそもお金というものが出てきたのは、海辺に住む人と山に住む人が、魚とリンゴを恨みっこなしで交換できるような、共通の尺度が必要だったからだろう。けれども、そのものにまったくの価値がないものを、あえて尺度として受け入れ、それに価値があるかのようにふるまうことは、ルールを受け入れ、それに沿って正しく行動する、という宣言と等しいのかも知れない。みんながそのルールに従わなければ、そのゲームは成立しない。だからこそ、強制的にではなく自発的に従うことが求められるのだ。「正義感」というのは、自発的にルールにしたがっているために生まれてくる意識ではあるまいか。

逆に、このルールを逸脱しているがゆえに得をした意識が、現実の利益以上に強まることもあるように思う。

自動改札というのは、子供料金で通過すると、だいたい赤いランプが点灯するようになっている。たまに、どう見ても子供料金に該当しない年齢の人が、子供料金で通過しているのを見ることもある。子供料金で乗車して、いったいどれほどの利益を得ることができるだろう。その人が求めているのは、現実の利益というより、自分が社会のルールを出し抜いた、という意識ではあるまいか。冷静に損失と利益を引き比べてみれば、正規の料金で乗車したほうがどれだけ「得」であることか。



百年前

2009-01-16 23:22:10 | weblog
暮れから正月にかけて「百年に一度」という文字を、新聞やネットのニュースで何度も見た。百年に一度の大不況だ、不景気だ、危機だ、というのである。確かに、実際に大変な思いをしていらっしゃる人もいるのだろう。だからあまり軽はずみに何か言うのもはばかられるのだが、わたしとしてはそんな実感もないのに、そんな言葉ばかりが踊っているのが、何ともいえず奇妙に思えてくるのだ。年賀状にも「これから厳しくなるだろうが」と書いてあるものもいくつもあった。だが、その言葉は書いた人の実感に裏打ちされたものだとは、どうにも思えないのだ。

百年前、というと、明治42年だ。伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺され、二葉亭四迷がインド洋上で日本に向かう船中で亡くなり、夏目漱石が『それから』を朝日新聞に連載し、中島敦と太宰治と松本清張が生まれたのがこの年だ(松本清張と太宰治が同じ年に生まれたというのが、わたしにはどうしてもピンとこない)。

1904年に生まれた幸田文は、当時のことをこう書く。
 貧乏のことをお話したいのです。明治の末から大正へかけての頃のことです。これも地域にもよるでしょうが、私の知っている範囲では、切詰めたつましい暮しの家が多く、ひどく窮乏している家も珍しくはなかったのです。
 どこも衣料はきびしい倹約で、質素でしたし、食事がまた粗末でした。粗末というより、お菜はないにひとしい漬物だけ、という家を私はいくつも見て知っています。初鰹などとさもきっぷのいいもののようにいうけれど、あれはもうその頃には伝説みたいなもので、それにしても女房を質に置かなければ、食べられなかったというお粗末な生活をうらがきにしています。だからこそお祭りだとか、子の誕生日だとかがせいぜいのご馳走で、それとて赤のごはんに半ぺんのおつゆに煮しめくらいが限度で、もし小鯛の焼物でもあろうものなら、それこそ「しなじな並べて」と吹聴するうれしがりようです。電灯だって五燭が普通だったのです。ですからあの頃の一般の暮らしには苦がにじんでいました。
(幸田文「いまここにはなくて」『季節のかたみ』)

もっと時代が下ってからも、その情況は続いたようだ。山田風太郎の幼い頃、というから、大正の終わりから昭和の初めにかけてだ。風太郎の家は医者だったので、近在のなかでも裕福だったのだが、友だちのところへ行くと、ちゃぶ台の真ん中に香の物を盛った鉢があって、それだけがおかずなのだった。暗いなかで、そんな食事をする彼らに楽しみがあるのだろうか、と書いていた。

そのうち、わたしたちの生活がそんなことになるのだろうか。

わたしの母は、十歳になる前に母親を亡くした。戦後それほど経っていないころである。そうして大変な苦労をしたという。おそらくその記憶が刷り込まれてしまったのだろう、平穏な日々がある日急に失われるのではないかという不安に、始終つきまとわれるようになったのだと思う。

わたしが子供の頃から、誕生日とか、家族旅行とか、何か楽しいイヴェントがあるたびに、「こんな生活がいつまでも続くと思ってはいけないよ」と教えるのだった。これから先、何が起こるかわからない。綱渡りをしているようなものだ、と。

ただ、聞かされる方の身となれば、たまったものではない。わたしは貧乏になることが怖ろしかったが、その怖ろしい相手がどんなものか、まったく想像がつかないのである。自分から何もかもが失われる、やがて家まで失われて、橋の下にひとりで寝ているところを夢に見て、ぎょっとして夜中に目を覚ましたこともある。

だが、大学に行くようになって、実際に、ほんとうにお金がない、つぎのバイト代が入るまで、全然無い、他に入る当てもない、という貧乏生活を何年か経験した。そうして思ったのは、貧乏になることを恐れていたときほど、それはきつくはなかった、ということなのである。ひとつには、とりあえず探せばバイトがあった、ということとも無縁ではないのだろうが、ただ怖れていた子供のときとはちがって、自分で何とかできたのだ。

貧乏な状態というのは、もちろん困ったものだ。たちまち何とかしなければならない、その手だてで頭はいっぱいになる。何をやっていても、ふと気がつけば頭の中では金の算段をしている。当時のことといったら、記憶にあるのはお金がなかったことばかりで、華やかだった世間のことはちっとも記憶にない。周囲と引き比べて、自分を惨めに思うゆとりもなかったのかもしれない。それでもその年に読んだ本は覚えているし、いつも聴いていた音楽だって記憶にある。お金の算段ばかりをしていたわけではないのだ。

またあの当時の生活に戻りたいとは思わない。できればそうなってほしくない。だが、なったらなったでどうにかなるさ、とどこかで思ってもいるのだ。

父を看取り、別れた夫を看取ったあと、文章を書いて身を立てるようになった幸田文はこう書く。
 いまは貧乏は消えたかにみえる世の中です。でも本当に消え去ったといえるでしょうか。そうは私は思いません。いまここにない、というだけのことで実はどこかに引籠っていると思うのです。
 このごろ私はよく「また気がたるんでいるな」と思うことがあります。平安だと、とかく心がだらんとします。嫌です。休息や寛ぎとはちがって、無気力になるのです。平安で、しかもきりっと締まっていたいと思いますが、なかなかそうはいきません。緊張して暮らしていた過ぎた日々のことを思うと、あの頃には貧乏がいて緊張をうながしてくれていた、と思い出します。でもあれにまた出て来てもらいたいなど、そんなことは、ふるふるご免です。ただ、ほのかにないものねだりの「今ここにはない」淋しさを感じます。…
 私はないものねだりを嫌いじゃありません。貧乏は義理にも好きとは申しませんが、貧乏のうながしてくれる緊張はなつかしく、今ここにある平安のだれよりずっといいと思います。

人は同じ条件にあるわけではない。ほかの人の抱える困難も、ほんとうのところはわからない。だからこんなことを書いていると、何もわかりもしないのに、一体何をのんきなことを言っているのだ、と言われるかもしれない。もし不快に思った人がいたら、ごめんなさい、謝ります。

それでも、困難に陥った人の姿を見て、明日はわが身かもしれない、と怯えるのは、少なくともそれは思いやりとは何の関係もない。



トンプソン一味はどこにいる

2009-01-15 22:23:35 | weblog
先日まで訳していたロバート・シェクリィの「危険の報酬」はいかがでしたか?
なかなかおもしろかったでしょう。
ちょっといま忙しくてなかなか手直しする時間がとれないのだけれど、来週あたりにはアップするつもりでいますので、お楽しみに。

ところで、あれはよくできた短篇だと思うのだけれど、一点、悪役の造型がうまくいってないように思える。トンプソン一家がなぜ主人公をつけねらうのか、彼らが反社会的な人間だから、というのでは、理由になっていないだろう。

その昔「いい人、悪い人」(いま気がついたが、わたしはこのログをこのタイトルで書いたのを忘れて、後日「良い人? 悪い人??」という文章も書いている。内容的にはちがうものなのだが、わたしはほんとうにタイトルのつけかたに芸がないなあ)という文章のなかで、スティーヴン・キングの「スタンド」が原作のドラマにふれているのだが、このドラマでも、いわゆる「悪いやつ」を集めただけでは、決して悪いことはできないことが、制作者の意図に反して明らかになっていた。

わたしたちはふつう悪いことをするのは悪い人間だと考える。
ところが実際には、事件が起こり、報道され、犯人がつかまった段階で、その犯人を「悪い人間」と見なすのである。「あの人がねえ、人は見かけによらないわねえ」と思うか、「前から臭いと思ってた」と思うかは、情況によるだろうが。

だが、彼らの多くは「悪い」といえるのだろうか。単に反社会的であるに過ぎない場合がほとんどではあるまいか。
強盗をする、暴力行為をする、詐欺を働く……などといった、個人的なレベルの反社会的な行為なら、いわゆる「悪い人間」、つまりは反社会的で、共同体の一員としてふさわしくないような人間でも可能だ。だが、トンプソン一味のように、組織を作り、継続的に、長期に渡って集団で「悪事」をなそうと思ったら、それは反社会的な人間には不可能だ。組織の一員として規律正しく行動することができるメンバーを集めなければならないし、彼らを動かすリーダーには、人格的な魅力だって必要だ。金で動く、あるいは恐怖政治によって支配する、そんな組織ではまともな活動は期待できない。そう考えていくと、組織の成員を納得させられるような思想だって必要だろう。もちろん彼らを養っていくための資金力が必要なことは言うまでもない。そうして彼らは自分たちの行動が悪いことだなどとはみじんも考えていないのだ。

ミステリだって、ミステリというジャンルが確立した最初の頃には「悪い人間」が犯人だった。シャーロック・ホームズには悪の天才モーリアティ教授が出てくるし、明智小五郎には怪人二十面相だ。だが、アガサ・クリスティになると、もうちょっと話は複雑になってくる。犯人は邪悪な一面を密かに抱えている人物だったり、邪悪さまではいかない、単におそろしく自己中心的だったり、あるいは愚かだったり、情況によってはだれもが犯人になりかねないような作品をいくつも書いた。そうなると、犯人の造型もぐっとむずかしくなってくる。クリスティ以降、動機に重点が置かれ、金銭や人と人の愛憎が絡み合い、悪い人間が犯人などという単純な図式は成立しにくくなった。一方で、モーリアティ教授などのような人物は、どこかお伽噺のように見えてくるようになった。

ところがヴェトナム帰還兵が犯人、というあたりが嚆矢なのだろうか、いつのまにかミステリでの犯人の主流は、精神状態に異常を来した人物、一種のモンスターになってしまった。「悪い人間」のかわりに「頭のおかしい人間」「人間の皮をかぶったモンスター」が犯人、というミステリが、どっとあふれたのである。これは一種の先祖返りというべきで、動機も何もあったものではなく、おかしい人間だからそういうことをする、というのである。

こうしたミステリが主流になったころから、わたしはこの手の本を読まなくなってしまったので、いまの主流がどうしたものかはほとんど知らない。
だが、もしいまもこの情況が続いているとしたら、もしかしたら、これは現実を反映しているのかもしれない、とも思うのである。

現実の犯罪というのは、どこまでいってもわたしたちにはよくわからないものが多い。どれだけ報道されても、一向にわからない。
そんなとき、「わたしたちと同じ人間が、否応なく追い込まれてやってしまった」と考えるより、「悪い人間だからそういうことをする」「おかしな人間だからそういうことをする」と考えた方が、少なくとも安心できる。わたしたちとは縁もゆかりもない人間なのだから、と。

シェクリィの話が、最近になって書かれたものなら、おそらくトンプソン一味はきっと顔の売れていない役者が演じるのだろう。「善きサマリヤびと」たちは、原作でもいまで言うところの「やらせ」らしいが、同じようにレイダーも、視聴者の代表などではないだろう。おそらく全員がやらせで、そうして視聴者も、おそらくそうだろう、と思いながらも、どこかでそうでないかもしれない、と期待しながら見るにちがいない。

シェクリィの目から見れば、そんなわたしたちは、奇妙に映るかもしれない。よくそんなまがいもので楽しむことができるな、と。

しあわせなキンギョ、しあわせなわたし

2009-01-13 22:38:36 | weblog
正月に初詣の帰りにでも金魚すくいをさせてもらったのだろう、キンギョの入った袋を下げて歩いている子供の姿を何人か目にした。

人間の引っ越しとはちがって、キンギョの場合、あらかじめ水槽の用意がしてあって、すくってきたキンギョを待っているなどということはほとんどないはずだ。すくったのはいいけれど、さて持って帰って何に入れようか、というところから始める人がほとんどだろう。

こういうときネットというのは便利なもので、何の準備も予備知識もなくても、とりあえずどうしたらいいか、何をそろえたらいいか、検索すればひととおりのことがわかるようになっている。わたしがキンギョを飼い始めたときは、パソコンの常時接続にしてまだ日も浅いころで、もしネットがなかったら、たちまちキンギョを死なせていたかもしれない、とあとになって何度も思ったものだった。

ともかく、キンギョにとって決して良い情況とは言い難い、露店の水槽から追いかけ回されて連れてこられ、何の準備もしていない、下手をすればカルキ抜きさえしていない容器のなかへ投げ込まれるのである。まさにキンギョとしては過酷な運命としか言いようがない。

キンギョ飼いとしてのキャリアも七年になり、それが正しいかどうかはともかく、自分なりの方法も定まってきた。その昔「金魚的日常」という文章も書いたことがあるが、実際、たかがキンギョと言っても、世話をするのはやはり大変で、手探りで、うまくいったり失敗したりしてきたのだ。

夏に病気が蔓延し、当時、過密飼育していた水槽のキンギョの半数を殺してしまったこともあるし、逆に冬場、急にサーモスタットが働かなくなり、加熱しっぱなしになった結果、水槽が温泉状態になり、一晩で五匹のキンギョを昇天させてしまったこともある。浮いているキンギョたちの姿にぎょっとして温度計の目盛りに気がついても時すでに遅く、なんともいえない思いで温泉と化した水槽を片づけたことを思い出す。

何度も病気になったし、治ったこともあるが、治療用水槽の底で、体を曲げて横になったまま、それでも一週間、二週間と生き続けるキンギョの最期を、なすすべなくみとどけたことも何度もあった。ウチで生まれたキンギョも三代目になるが、ずいぶん死なせたことを考えると、ときに自分が何をやっているのかと思う。

ときに「アンタのところのキンギョはしあわせよ」と言われることがある。
人によっては金魚すくいで連れて帰っても、エアポンプさえない、ろくに水換えさえしてやらない状態でほったらかしているケースだってあるのに、というわけだ。
そんなことを言ったところで、現実に何匹も殺しているのだから、ほったらかしにしているのとどれほどの差があろう。

おまけにキンギョにとって、いったいどういう状態が「しあわせ」と呼べるのか、キンギョならぬ身としては、わかりようがない。

わたしのよく行くペットショップは、和金(ただ赤いだけの何の変哲もないキンギョ。当然ウチのキンギョもそれだ)は扱わないのだそうだ。というのも、ペットショップが仕入れる和金というのは、ほかの大型熱帯魚のエサでもあるからなのだそうだ。店によっては、一方で生き餌として飼育しつつ、仕入れ値の何十倍かの値段で、安価なキンギョとして売っているところもあるらしい。行きつけのペットショップのお兄ちゃんは、そういうことに矛盾を感じるから扱わないのだとか。

ただ、ほかの熱帯魚にエサとして食われるのと、ペットとして飼われ、そこで病気になったり、事故に遭ったりして死ぬのと、実際どちらが「しあわせ」と言えるのか、わたしにはよくわからない。

小学生のまだ低学年のころだったと思うが、『ドリトル先生』のシリーズが好きで、全巻を飽きずに繰りかえし読んだ。いまとなってはどの本だったかも覚えていないのだが、水族館の魚が、ふるさとの海の記憶を懐かしみ、自由をこいねがいながらドリトル先生に話して聞かせ、恋しがって泣くというエピソードがあった。だが、水族館の魚がほんとうにそんなことを考えているか、それは当の魚でもなければわかりはしないだろう。

魚というのは一度にものすごい数の産卵をするものだが、裏を返せば個体1匹生き延びさせようと思えば、それくらいの卵が必要なほど、海にせよ川にせよ、自然のなかで生き延びるのは過酷であるにちがいない。はたして水族館の魚がドリトル先生に出てくる魚のように故郷の海を恋しがるものなのだろうか。

さらに、キンギョなど観賞魚の多くは、人間に飼われることを前提として品種改良を重ねたもので、もはや「自然」とはずいぶん隔たってしまっている。仮に彼らに故郷の記憶があったとしても、それは水槽だ。キンギョは泳ぐのがヘタだし、フィルターのあいだのような細い隙間にはさまってしまうマヌケなことも平気でする。野生の生き物には考えられない危機感のなさである。彼らはもはや「自然」(もはやわたしたちの周囲では、いったい何を「自然」と呼ぶかはむずかしいところなのだが)のなかでは生きてはいけない。

おそらくキンギョが「しあわせかどうか」と考えるのは、たんなるキンギョの擬人化に過ぎず、意味などないことなのだろう。

水がきれいで、ヒーターのおかげで水温は25℃、フィルターも作動して酸素が十分送り込まれ、水草も緑豊かにたゆたっているのを見ると、キンギョもなんとなく楽しそうに見える。さきほど「擬人化」と書いたが、これは「擬人化」ならぬ「擬魚化」と言った方が適当なのかも知れない。もし自分がキンギョで、このなかにいればきっとしあわせだろう、と思うのだろう。
あるいは逆に、こんなせまいところに閉じこめられて……と思うのも、この「擬魚化」のなせるわざなのだろう。
おそらくキンギョはそんな尺度と無縁のところで生きている。

そう考えると、キンギョと暮らしてしあわせなのは、キンギョではなくわたしなのだ。世話をしてもらってしあわせなのだ、と考えるのも、自由を制限されて、あるいはへたくそな飼育の犠牲になってかわいそう、と考えるのも、それは自分を「擬魚化」して考えているに過ぎない。

それでもこの「擬魚化」のおかげで、わたしはほんの少し、人間である自分から離れることができる。それがキンギョのためになっているかどうかは定かではないが、まちがいなくわたしの毎日を、ほんの少し、豊かなものにしてくれている。

いてくれて、ありがとう。

ロバート・シェクリィ「危険の報酬」最終回

2009-01-11 23:22:02 | 翻訳
最終回

 レイダーは茂みに横たわって、じっとしたまま考えていた。ああ、そうだ。みんなはおれを助けてくれた。だが、同時に殺し屋にも力を貸してきたんだ。

 彼の体を悪寒が走った。おれが選んだことじゃないか。自分にそう言い聞かせる。責任があるのはこのおれだけだ。心理テストが証明しているじゃないか。

 だが、彼をテストした心理学者にはいかなる責任もないといえるのだろうか? 貧乏な男に大金をちらつかせたマイク・テリーには? 世間は首つり用の縄をない、彼の首にかけた。そこで彼がぶらさがり、それが自由意思と呼ばれるのだ。

 いったい誰の責任なんだ?

「あっ!」誰かが叫んだ。

 レイダーが顔を上げると、でっぷり太った男がそばに立っていた。男は派手なツィードのジャケットを着ている。首から双眼鏡をぶらさげ、手にステッキを持っていた。

「なあ」レイダーはささやいた。「頼むから黙っていてくれ」

「おーい!」太った男は大声をあげると、ステッキでレイダーを指し示した。「ここにやつがいるぞ!」

 こいつ、いかれてる、とレイダーは思った。この大馬鹿野郎はかくれんぼでもしてると思ってるらしい。

「ここにいるんだ!」男は腹の底から声をふりしぼった。

 悪態をつきながら、レイダーは飛び起きて走り出した。渓谷を出ると、遠くに白い建物が見える。そちらに向かって走った。背後では、男の声がまだ聞こえていた。

「あっちだ、あっちへ行った。まったく、あほうどもが、まだ見えないのか」

 殺し屋たちが発砲を始めた。レイダーはでこぼこの谷底を転げるように走り続けていくうちに、三人の子供がツリー・ハウスで遊んでいるところにさしかかった。

「あいつだ!」子供たちが金切り声をあげた。「ここにあいつがいるよ!」

 レイダーはうめき声をあげて走り続けた。建物の入り口の階段に近づいたところで、そこが教会であることに気がついた。

 教会の扉を開けたところで、弾が右膝の裏側に当たった。

 倒れ込み、這いながら教会に入っていく。

 ポケットのなかのテレビが言った。「みなさん、なんという、なんという幕切れなのでしょう! レイダーが撃たれました! 撃たれたんです、みなさん! 彼はいま這っています。痛みに耐えながら、それでも希望を失わず。ジム・レイダーは不屈です!」

 レイダーは通路を進んで、祭壇のところで横たわった。子供たちの嬉々とした声が聞こえる。「やつはここに入ったよ、トンプソンさん。急いで、追いつけるから!」

 教会は逃亡者をかくまってくれる聖域ではなかったのか? レイダーはいぶかった。

 扉がさっと開いて、レイダーはもはやそのような風習は保たれてはいないことを悟った。全身の力をかき集めて腕で進みながら、教会の裏口から外へ出た。

 そこは古い墓地だった。十字架や星をかたどった墓碑、大理石や花崗岩などの石造りの墓碑や粗末な木の墓標の横を這って進む。弾が頭をかすめて墓石に当たり、破片が散った。這いずりながら墓穴の縁にきた。

 みんな、おれをだましたんだ、と彼は思った。みんな、善良で、平凡で、まっとうな人たちだった。自分たちの代表だと言ってくれなかったか? 自分たちの一員としてかばってやると誓ってくれなかったか? 冗談じゃない。やつらはおれを憎んでいる。なんでおれはそれに気がつかなかったんだろう。やつらの英雄は、冷酷で虚ろな眼をした殺し屋なんだ。トンプソンやアル・カポネ、ビリー・ザ・キッド、若いロキンヴァー(※ウォルター・スコットの長詩「マーミオン」に出てくる騎士。結婚式のさなか、教会へ馬で乗り込み、花嫁を奪って去る)やエル・シド(※ムーア人と戦ったスペインの国民的英雄)、クーハラン(※アイルランド伝説の英雄)のように、人間らしい望みや恐れを抱くことのない連中なのだ。みんなが崇拝するのは、無表情で情け容赦ないロボットのようなガンマンで、その足下にひれ伏すことを渇望しているのだろう。

 レイダーは何とか動こうとしたが、なすすべなく、その口を開けた墓穴にすべり落ちてしまった。

 仰向けに横たわり、青空を見ていた。不意に黒い影がぬっとあらわれ、空をさえぎった。金属製の何かがきらめく。人影はゆっくりとねらいを定めた。

 レイダーはあらゆる希望を永久に捨ててしまった。

「待て、トンプソン!」マイク・テリーのマイクで増幅された声が叫んだ。リボルバーがぐらついた。

「いま五時一秒だ! 一週間は終わった! ジム・レイダーが勝ったんだ!」

 スタジオの観衆が拍手喝采する大騒ぎの音が聞こえてきた。

 墓穴を取り囲むトンプソン一味は、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべている。

「彼は勝ったのです、みなさん、彼の勝利です!」マイク・テリーは叫んでいた。「ご覧ください、スクリーンをご覧ください! 警官が到着し、トンプソン一味を引き離しています――彼らが殺し損なった獲物から! 何もかも、みなさん、アメリカ全土の『善きサマリヤびと』であるみなさんのおかげです。みなさん、見てください、優しい手がジム・レイダーを墓穴から引き上げているところです。ここが彼の最後の隠れ家となりました。『善きサマリヤびと』のジャニス・モロウさんもそこにいます。果たしてこれがロマンスの始まりとなるのでしょうか? ジムは気を失っているようです、みなさん。いま刺激剤を投与されているところです。二十万ドルの賞金を獲得したのです! さあ、ここでジム・レイダーに一言聞いてみましょう!」

 短い沈黙の間があった。

「変だな」マイク・テリーは言った。「みなさん、いますぐにはジムのコメントは聞けないかもしれません。医師団が診察しているところです。しばらくお待ちくだ……」

 沈黙が落ちた。マイク・テリーは額の汗をぬぐうと笑みを浮かべた。

「緊張のせいですね、みなさん、なにしろ恐ろしい緊張を体験したのだから。ドクターの話が入ってきました……えー、みなさん、ジム・レイダーは一時的に落ち着かない状態になってしまったようです。もちろん、ほんの一時的なものですからね! JBCは国内でも一流の神経科医と精神分析医を招いておりますから。この勇気凛々たる青年に対して、わたしたちは人道的見地から、可能な限りあらゆる手を講じることにしております。もちろん一切は局の負担によるものです」

 マイク・テリーはスタジオの時計に目をやった。「さて、そろそろお別れの時間となりました。次回のグレート・スリル・ショーのお知らせをご覧ください。それからどうぞご心配なく。ジム・レイダーはまもなくわたしたちと一緒にみなさんにお目にかかることができるはずですから」

 マイク・テリーはにっこりし、視聴者に向かってウィンクした。「彼は絶対によくなりますよ、みなさん。なにしろわたしたちみんなが応援しているんですからね!」




End



(※近日中に全体に手を入れて、まとめてサイトにアップする予定です)

ロバート・シェクリィ「危険の報酬」その7.

2009-01-10 22:40:03 | 翻訳
その7.

 樺と松の木立ちのなかを彼は走っていった。斜面には段差のある家が点々と建っていたが、そこの大きな窓からは、一心に外に目を向けている顔がいくつものぞいていた。そんな家々のどこかから、一味にたれ込みがあったにちがいない。水の涸れた小さな谷底まできたときには、連中がすぐ後ろに迫っていた。この静かな場所に住む、礼儀正しく法律を決して破ったりしないような人びとも、おれが逃げ延びることを望んではいないのだ。レイダーは悲しい気分でそう思った。おれが殺されるのが見たいのだ。それとも、すんでのところで、殺されるのをまぬがれるところが見たいのか。

 実際は、どちらにせよ同じことだった。

 谷底におりていくと、うっそうとした茂みに潜って身を横たえた。トンプソン一味が両方からおりてきて、ゆっくりと移動しながら、動くものの姿がないか目を光らせている。レイダーは息を殺し、身を潜めた場所に沿って歩いていく彼らをやり過ごした。

 リボルバーの短い発射音が響いた。だが、殺し屋が仕留めたのはリス一匹だった。ぴくぴくしていたリスも、やがて動かなくなった。

茂みに横たわったまま、レイダーは頭上で旋回しているテレビ局のヘリコプターの音を聞いていた。カメラは自分の姿をとらえただろうか。ありそうなことだ。もしだれかそれを見たら。万一それが『善きサマリアびと』なら。

 そこで仰向けになって、ヘリコプターに向かって敬虔な表情を作り、両手を組んで祈った。視聴者はこれみよがしな信仰の仕草は好まないかもしれない、そこで声は出さなかった。だが、唇は動かすことにした。これぐらいのことはしてかまわないだろう。

 唱えたのは本物の祈りだった。以前、読唇術を身につけた視聴者がいて、ある逃亡者が祈るふりをしながら実際には九九を唱えていたことを見やぶったのである。そんな男をどうして助ける必要があろう!

 レイダーの祈りが終わった。時計に目を走らせる。あと二時間ほどの辛抱だ。

 死にたくはなかった。いくら金を積まれても、こんなことで死ぬのはごめんだ。まったく頭がどうかしていたんだ。あんな気ちがいじみた契約に同意してしまうなんて……。

 だが、ほんとうはそうではなかったことを彼はよく知っていた。自分は徹頭徹尾、正気だったのだ。

* * * * *

 ちょうど一週間前、彼はスポットライトもまばゆい『危険の報酬』のステージに登場していた。マイク・テリーが握手を求めてきた。

「さて、レイダー君」テリーはおごそかな声で言った。「君がやろうとするゲームのルールは、よくわかってるね?」

 レイダーはうなずいた。

「ジム・レイダー君。もしあなたがこれを受け入れるなら、あなたは一週間の間、追われる身になるのです。殺し屋たちがあなたを追いかけるんですよ、ジム。凄腕の殺し屋です。ほかの罪状でお尋ね者になっている連中が、この一件のみ、任意自殺法が適用されるために免責扱いとなる。彼らは君を殺そうとするだろう。そのことはわかってるんだね?」

「わかってます」レイダーは言った。同時に、一週間生き延びれば、二十万ドルが手にはいることも了解していた。

「レイダー君、もう一度尋ねるよ。わたしたちは君に命を賭けるよう、いかなる強制もするつもりはないんだからね」

「おれがやりたいんです」レイダーは言った。

 マイク・テリーは観客に向き直った。「紳士淑女のみなさん、わたしがここにもっているのは、一通の徹底的な心理テストの結果です。これはわたしたちの申し出を受け入れたジム・レイダー君に対して、第三者機関が心理テストをおこなったその結果なのです。この写しは、ご希望の方に25セントの送料をご負担いただいた上でお送りいたします。この結果によりますと、ジム・レイダー君の精神状態はまったく申し分なく、あらゆる面において責任を負うことが可能であるということです」そこで今度はレイダーの方を向いた。

「ジム、君はほんとうに競技への出場を希望するんだね?」

「はい。そうするつもりです」

「すばらしい!」マイク・テリーは叫んだ。「ジム・レイダー君、君を殺そうとする連中をお目にかけよう!」

 ギャングのトンプソン一味が舞台に登場し、観客からブーイングが浴びせられた。

「やつらを見てやってください、みなさん」マイク・テリーが軽蔑もあらわに言った。「どうですか、みなさん。反社会的で、骨の髄まで冷酷、道徳心のかけらもない。連中にあるのは闇社会のねじ曲げられた掟だけ、彼らには規範なんてものは存在しないんだ。彼らには誇りもありません。かりにあったとしても、雇われ殺し屋の腰抜けの名誉です。彼らは滅びゆく連中だ。彼らの行為をもはや許容できないわたしたちの社会のなかにあって、滅ぼされる連中、早晩、惨めな末路をたどることが宿命づけられた手合いなのです」

 観衆は熱狂的な歓声を送った。

「何か言いたいことはあるかね、クロード・トンプソン?」テリーは尋ねた。

 クロード、トンプソン一家のスポークスマンがマイクの前に立った。きちんとひげを剃った、痩せて地味な格好をした男だった。

「思うんだが」クロード・トンプソンはしわがれた声で言った。「おれたちが世間の連中にくらべて格別あくどいってわけじゃない。戦争中の兵隊を見てみろ、人を殺すことには変わりないんだ。政府だって組合だって、同じことじゃねえか。みんな袖の下を取ってるんだ」

 それがトンプソンにとっての精一杯の理屈らしかった。だが、マイク・テリーはいともたやすく、また、きっぱりとした口調で、殺し屋どもの言い分を完膚なきまでにうちのめす。テリーは相手を問いつめ、薄汚れた魂をまっすぐに貫いた。

 インタビューの終わるころには、クロード・トンプソンは汗だくになり、絹のハンカチで顔をぬぐいながら、子分の方にちらちらと目配せしていた。

 マイク・テリーはレイダーの肩に手を載せた。「ここに君たちの獲物になることに同意した人物がいる――ただし、君たちに捕まえることができたら、の話だが」

「わけなく捕まえられるさ」トンプソンは言ったが、ここへ来て落ち着きを取り戻したらしかった。

「いい気になるなよ」テリーは言った。「ジム・レイダー君は凶暴な牡牛とだって闘ったことがある――こんどの相手は小物だからな。彼はありふれた男だ。大衆の一員だ――最終的に、君や、君の同類を滅ぼしてしまう大衆のな」

「捕まえてやる」トンプソンは言った。

「それからもうひとつ」テリーがなごやかな調子で言った。「ジム・レイダー君はひとりじゃない。アメリカ中の人びとが彼の味方だ。全国至るところにいる偉大な人びとが『善きサマリヤびと』として、彼を助ける。武器も持たず、身を守るすべもないジム・レイダー君だが、彼はみんなの援助と応援を味方につけているんだ。彼は大衆の代表なのだからな。だからいい気になるんじゃないぞ、クロード・トンプソン! ありふれた人びとはみなジム・レイダーの味方だ――ありふれた人びとの数は多いぞ!」

* * * * *

(※ジム・レイダーの運命やいかに。明日怒濤の最終回)



ロバート・シェクリィ「危険の報酬」その6.

2009-01-09 23:10:12 | 翻訳
その6.

「ここでいい」レイダーは言った。

 運転手に金を払い、細い田舎道を歩き始めた。その先にはまばらな雑木林がある。木立ちの丈が低い上に、木と木の間隔が離れているので、そこには隠れられそうもない。レイダーは身を潜める場所を探しながら歩き続けた。

 一台の大型トラックが近づいてくる。彼は帽子を目深にかぶって歩き続けた。トラックが近づいたとき、ポケットのテレビから声が聞こえた。「危ない!」

 身をひるがえして溝に飛び込んだ。辛くもかわしたところで、猛然と走り過ぎたトラックは、キーッとタイヤをきしませて止まった。ドライバーの怒鳴り声がした。「逃げるぞ! 撃て、ハリー、撃つんだ!」「

 レイダーが林に飛び込むと、弾が落ち葉の雨を降らせた。

「またもやピンチです!」マイク・テリーがうわずった声で叫んでいる。「ジム・レイダーは早まって安心してしまったのではないでしょうか。そんなことをしちゃいけない、ジム! 自分の命は危険にさらすようなことをしちゃいけない! 殺し屋に追われているようなときに! 気をつけるんだ、ジム、君はまだ四時間半、逃げ続けなければならないんだよ!」

 運転手が話している。「クロード、ハリー、トラックで回り込むんだ。やつはもう袋のネズミだ」

「やつらは君を袋のネズミにしたと言ってるぞ、ジム・レイダー!」マイク・テリーが叫んだ。「でも、やつらはまだ君を捕まえてはいない! なにより君は『善きサマリアびと』であるニュージャージー州サウス・オレンジのエルム街12番地のスージー・ピーターズさんにお礼を言わなければいけないよ。ピーターズさんはトラックが君を轢こうとしたときに、悲鳴を上げて教えてくれたのだから。まもなくそのスージーさんがステージにやってきてくださいます……さて、みなさん、局のヘリコプターが現場に到着しました。みなさんにもジム・レイダーが走っているところがご覧になれますね、殺し屋たちが跡を追い、包囲しようとしているのも……」

 レイダーは林のなかを100メートルほど走ると、舗装道路に出た。向こうにはまばらな木立ちが見えた。殺し屋のひとりが彼をおいかけて、林のなかを走ってくる。トラックがふたつの道を結ぶ道路を走って、彼のところから2キロもない位置にまで迫っている。

 一台の車が反対側からやってきた。レイダーは道路に飛び出し、むちゃくちゃに手を振った。車は止まった。

「急いで!」運転していた若いブロンドの女が叫んだ。

 レイダーは飛び乗った。女はそこでUターンした。弾が当たってフロントガラスが粉々に割れた。女はアクセルを踏み、途中にひとりで立っている殺し屋はねとばしそうになりながら走らせた。

 車はトラックからの射程圏内に入る前に、どんどん離れていった。

 レイダーは座席に身を預け、目をきつく閉じた。女はバックミラーに映るトラックを見ながら、一心不乱に運転している。

「またもや動きがありました!」マイク・テリーが恍惚としたような声を上げた。「ジム・レイダーは、ここでもまた、死のあぎとより引き上げられたのです。『善きサマリヤびと』であるニューヨーク・シティ、レキシントン街433在住のジャニス・モロウさんに感謝しましょう。こんな場面をこれまでに見たことがあったでしょうか、みなさん。ミス・モロウは弾丸が降り注ぐなかを走り抜け、ジム・レイダーを地獄の縁から助け出したのです! のちほどミス・モロウにインタビューして、ご感想をうかがうことにしましょう。さて、いまやジム・レイダーがスピードを上げているあいだ――おそらく安全な状態で、おそらくさらなる危機の待つ方へ進むあいだ、スポンサーからの短いお知らせをお送りいたします。チャンネルはそのままで! ジムが安全の身になるまでにはまだ四時間十分ありますからね。予断は許しませんよ!」

「いいわよ」と女が言った。「いまは放送されてない。レイダー、あなたいったいどうちちゃったのよ」

「へ?」レイダーは聞き返した。女は二十代の初めだろう。見るからに有能で、しかも魅力的、近寄りがたい雰囲気があった。きれいな顔立ち、しかもスタイルもいいのにレイダーは気がついた。おまけになんだか腹を立てているようだ。

「お嬢さん」彼は言った。「お礼の言葉もないよ……」

「ぶっちゃけた話」ジャニス・モロウは言った。「あたしは『善きサマリアびと』なんかじゃない。JBCに雇われてる人間よ」

「じゃ、番組がオレを助けてくれたのか!」

「そのとおり」

「なんでまたそんなことを?」

「あのね、これはお金がかかってる番組なのよ、レイダー。わたしたちはみんな、うまくこなさなきゃならないの。視聴率が下がりでもしたら、わたしたちみんな、道ばたでリンゴ飴でも売らなきゃならなくなっちゃう。なのにあんたときたら、ちっとも協力してくれないんだから」

「協力って何を? 何でまた?」

「だってあんたがトンチキだから」女は吐き捨てるように言った。「ダメなんだから、ドジばっかり踏んで。自殺でもするつもり? どうやったら生き延びられるか、何も学ばずに来たの?」

「最善を尽くしているつもりなんだけど」

「トンプソン一味は、これまでに十回以上、あんたを殺せたのよ。わたしたちが、落ち着くんだ、先へ延ばせ、って引き留めてきたの。だけど、まるでクレー射撃用の180センチの的が、さあ撃ってくれ、って言ってるようなものじゃないの。トンプソン一味だってこれまで協力してくれてたけど、いつまでもお芝居を続ける必要があるわけじゃない。もしあたしが来てあげなかったら、やつら、あんたを殺してたわ――放送時間が残ってようがいまいが」

 レイダーは呆然と彼女を見た。こんなかわいい女の子が、どうしてこんなことを言うのだろう。彼女はちらりと彼に目をやり、すぐに背後の道路に視線を戻した。

「そんなふうにあたしを見ないで!」彼女は言った。「お金のために自分の命を危険にさらしたのはあんたなんだからね、このバカ。すごい大金なのよ! あんただってわかってるでしょ。何も知らない雑貨屋の小僧が、おっかないあんちゃんたちに追いかけられてるのに気がついた、なんて顔をするのはやめて。そんな筋書きじゃないんだから」

「わかってる」レイダーは言った。

「うまく生き延びられないんだったら、せめてうまく死んでよね」

「本気でそんなこと言ってるわけじゃないんだろ?」レイダーは言った。

「どうかしらね……。番組が終わるまで、あんたはまだ三時間と四十分もあるのよ。うまく持ちこたえられれば、それは結構。賞金はあんたのもの。だけど、たとえそれがムリでも、なんとか賞金のために逃げようとぐらいはしてちょうだい」

 レイダーは彼女をじっと見つめたままうなずいた。

「もうじきあたしたちはまたテレビに映っちゃう。車のエンジンがおかしくなっちゃって、あんたは降りることになるのよ。トンプソン一味は、いま全員総出。見つけ次第、あんたを殺すわよ。わかった?」

「わかった」レイダーは言った。「もしおれがうまく逃げられたら、いつか会ってくれる?」

 彼女は怒って唇を噛んだ。「あたしをからかってんの?」

「そうじゃない。ただ、また会いたいと思って。会えるかな?」

 まじまじと彼の顔を見た。「わかんないわ。そんなことは忘れて。もう映るから。たぶん、一番可能性がありそうなのが、右手の林だと思う。準備はいい?」

「いいよ。で、どこへ連絡したらいい? もちろん終わったら、の話だけど」

「もう、レイダーったら、何を寝ぼけたことを言ってるの。林を抜けて、水の涸れた渓谷まで行くの。少しだけど、隠れられるところがあると思う」

「どこへ連絡したらいい?」レイダーはもう一度聞いた。

「電話帳のマンハッタン地区に載ってるわ」彼女は車を停めた。「オーケイ、レイダー。走るのよ」

 彼はドアを開けた。

「待って」彼女は身をかがめて顔をよせ、彼の唇にキスをした。「頑張って、おバカさん。逃げ延びられたら、電話して」

 それから彼は地面に降り立つと、林に向かって駆けだした。


* * * * *

(この項つづく)


ロバート・シェクリィ「危険の報酬」その5.

2009-01-08 22:09:19 | 翻訳
その5.

 レイダーは襲いかかった。剣は骨にはじき飛ばされ、彼は牛の背に放り上げられた。立ちあがったが、奇跡的に角で突かれずにすんだらしい。別の剣で、今度は目をつぶって角の間に突き立てた。子供や愚者を護る神が見守っていてくれたにちがいない、剣は針をバターに刺すようにすっと入って、牛は驚いたように、まさかこんなことが、といわんばかりのまなざしで彼をまじまじと見ると、しぼんだ風船のように、がくりとくずおれた。

 賞金の一万ドルを手にした彼は、ほどなく鎖骨骨折も癒えた。二十三通のファンレターを受け取り、そのなかには応えなかったものの、アトランティック・シティに住む女の子から、情熱的な言葉で彼を招待している手紙も含まれていた。そうしてテレビ局は、別の番組に出るつもりはないか、という打診があった。

 彼は純真さのいくばくかを失っていた。自分がはした金で殺されかけたことを、十分に思い知らされていたのだ。この先は大金である。そのときの彼は、どうせ殺されるのなら、それに見合う金のために殺されたいと考えるようになっていた。

 そこで彼はフェア・レディ石鹸がスポンサーになっている『海底危機一発』に出ることにした。ダイビング・マスクと水中呼吸装置、重量ベルトとフィンとナイフを装備して、他の四人の競技者とともに、温かなカリブ海の底に潜るのだ。カメラ・クルーは防護柵に守られながら彼らを追う。スポンサーが海底に隠した宝物のありかを探して取ってくるのがテーマだった。

 ダイビングそのものは、とりたてて危険なものではない。だがスポンサーは視聴者の興味をそそるためにいくつかの趣向を凝らしていた。その領域に、巨大な二枚貝やウツボ、さまざまな種類のサメや大ダコ、毒サンゴ、そのほか、深海を危険にするさまざまな配備を行ったのだった。

 危機感あふれる競技となった。フロリダ出身の男が岩の深い割れ目で宝物を見つけたが、ウツボに見つかった。別のダイバーがそれを手に入れたが、今度はサメにつかまった。目の覚めるような青緑色の水がぱっと血で染まる、その映像は見事にカラー・テレビに映えた。宝物はまた海底に沈み、レイダーはそれを追いかけて潜ったが、途中で鼓膜が破れた。毒サンゴにひっかかっているのを拾い上げ、重量ベルトを捨てて、浮かび上がろうとした。海面まであと9メートルというところで、もうひとりの宝探しをしているダイバーと、争わなければならなくなった。

 前へ後ろへとフェイントをかけながらナイフで戦う。男がレイダーの胸に斬りかかった。だがレイダーは百戦錬磨の競技者らしい落ち着きをもって、ナイフを捨てると相手の口から呼吸装置をむしり取った。

 それで決着がついた。レイダーは海面に浮かび上がると、宝物を予備のボートに向かって掲げた。宝物はフェアレディ石鹸が入った箱だった――「宝のなかの宝」。

 これで二万二千ドルの賞金と賞品を手に入れ、308通のファン・レターを受け取った。なかにはジョージア州メイコンに住む女の子から興味をそそる誘いがあって、これには彼も真剣に考えてみた。ナイフの傷と鼓膜の治療やサンゴにかぶれた手当としての注射などの医療費は一切かからなかった。

 だがなによりも、とうとう彼はスリル番組の最高峰ともいえる『危険の報酬』への招待を受けたのだ。

 そうして、このときから本当の困難が始まったのだった……。

 地下鉄が停車し、うとうとしていた彼ははっとして目を覚ました。レイダーは帽子を押し上げて、通路の向こうの席を見渡した。男がひとり、じっと彼を見つめながら、横にいるがっしりした女に、何ごとか耳打ちした。気づかれてしまったのだろうか?

 ドアが開くが早いか立ち上がり、時計に目を走らせた。まだ五時間残っていた。

* * * * *

 マンハッタン駅でタクシーに乗り、運転手にニュー・セイラムに行くよう伝えた。

「ニュー・セイラムですね」ドライバーは、バックミラーに映った彼の顔をじろじろ見ながら聞き返した。

「そうだ」

運転手はカチッと鳴らして無線を入れた。「ニュー・セイラムまでお客さんだ。そう、そういうことだよ、ニュー・セイラムだ」

 車は発車した。レイダーは険しい顔で、いまのが何かの合図だったのではないか、と考えた。もちろんタクシーの運転手が係員に行き先を報告することは、まったく当たり前に行われることだ。だが、運転手の声には何かある……。

(この項続く)

ロバート・シェクリィ「危険の報酬」その4.

2009-01-07 21:56:51 | 翻訳
(※今日は忙しかったから短いよ)

その4.

 番組は典型的なモーターレースのスタイルで行われる。未熟なドライバーが馬力のあるアメリカやヨーロッパのレース用の車に乗り込んで、30㎞を超す危険きわまりないコースを競うのである。レイダーは、彼の乗った大型のマセラティのギヤの操作を誤ったためにいきなり発車し、恐怖におののいていた。

 レースは車が悲鳴を上げ、タイヤの焦げる、悪夢のようなものだった。レイダーは後方に留まって、先行集団が早々に逆バンクのヘアピンで曲がり損ねてぶつかり合うのを見ていた。目の前を走っていたジャガーが進路をそれてアルファロメオにぶつかり、二台ともがうなりをあげて、掘り返した空き地に突っ込んでいったために、レイダーは三位にすべりこんだ。レイダーはスピードを上げて残り5㎞というところで二位になったが、抜かそうにも抜ける場所がない。S字カーブにつかまりそうになったが、なんとか車を路上に戻して、三位をキープした。すると、あと15mというところになって、先頭の車のクランクが折れたために、結局ジムは二位でゴールすることができた。

 ついに千ドルを獲得したのだ。ファンレターも四通来たし、オシュコッシュに住む女性がアーガイル模様の靴下を編んで送ってくれた。そうして『非常事態』の出場権を得たのだった。

 ほかの番組とはちがって、『非常事態』は競技番組ではなかった。この番組が重きを置いているのは、個々人の独創性なのだった。番組のために、レイダーは習慣性のない麻酔剤を打たれて意識を失う。目が覚めるとそこは小型飛行機のコックピット、パイロットもおらず、高度10,000mを飛んでいたのだった。燃料計の針は、ほとんどゼロに近い。パラシュートもない。自分で飛行機を着陸させなければならないのだった。

 もちろん、彼には飛行機で飛んだ経験などない。

 先週の出場者が潜水艦のなかで意識を取り戻し、間違ったバルブを開けて溺れ死んだことを思い出しながら、なんとか自分を励まして試行錯誤を続けた。

 何千という視聴者が、自分と同じの平凡な人間が、自分がそこに置かれるかもしれないような情況で格闘しているのを見守った。ジム・レイダーは自分なのだった。彼にできることなら自分にだってできるのだ。彼はありふれた人間の代表なのだから。

 レイダーはどうにか機体を着陸態勢に近い格好でおろすことができた。彼自身、何度かひっくりかえりそうになりながら、シートベルトのおかげで助かっていた。しかも、予想に反してエンジンが火を噴くこともなかったのだった。

 肋骨を二本折った彼は、よろよろしながら降りてきて、三千ドルと、傷が治ったら『闘牛』に出場する権利を得たのだった。

 ついに第一級のスリル番組がまわってきた! 『闘牛』の賞金は一万ドルである。彼がやることは、ただ、本物の、訓練を重ねた闘牛士のように、誉れ高いミウラ牧場の闘牛を刺し殺すだけなのだ。

 その試合は、闘牛はアメリカ本国では非合法なので、マドリードで行われた。それが全米で放映されるのある。

 レイダーには強力なカドリーラ、闘牛助手がついていた。彼らは図体の大きい、動作の鈍いアメリカ人に好意を持っていた。ふたりいる馬上のピカドールは、槍を構え、彼のためになんとか牛の動きを遅くしてやろうとした。バンデリロたちも小槍を投げる前にけんめいに走って、牛が立っていられないほど疲れさせようとした。そうして副闘牛士、アルヘシラスからやってきた、物憂そうな顔つきの男は、あざやかな動きでケープを使い、牛の首をへしおらんばかりにしてくれた。

 だが、とうとうジム・レイダーが闘牛場に立つ番がやってきたのだった。赤いムレタを左手で不器用に握りしめ、右手に剣を構え、一トンの黒い、血をしたたらせている、大きな角の闘牛と向かい合ったのだ。

 叫ぶ者がいた。「おい、肺を狙うんだ。英雄を気取るんじゃない、やつの肺を刺せ」

 だが、ジムが知っているのは、ニューヨークの技術指導者が教えてくれたことだけだった。剣を構えて角の間をねらえ。

(この項続く)


ロバート・シェクリィ「危険の報酬」その3.

2009-01-06 22:35:47 | 翻訳
その3.

 地下鉄はうなりをあげて、マンハッタンの下を走っていた。レイダーは包帯の巻いてある手を新聞の下に置き、帽子を下げて顔を隠して、うとうととまどろんだ。まだ見つかってはいないのだろうか? トンプソン一味をふりきったのだろうか。それともいまちょうど、誰か連中に電話をかけているところか。

 ゆめうつつのうちに、自分は死に神の手から逃げおおせたのだろうか、それとも巧みに動かされている死体なのだろうか、と考えていた。あっちやこっち、うろつきまわっているのも、死に神のやつがもたもたしてるってだけなんじゃないか?(やれやれ、きょうびの死神は、えらくのろまになったもんだな! ジム・レイダーは死んでから何時間もうろつきまわって、きちんと埋葬される直前まで、みんなの質問に答えてたらしいぞ!)

 レイダーははっとして目を開いた。夢を見ていたような気がする……気持ちの悪い。だが、中身を思い出すことはできなかった。

 ふたたび目を閉じると、自分が厄介ごとに巻き込まれていなかった日々があったことがよみがえってきて、何か不思議な気分に襲われた。

 二年前のことだった。彼は大きな図体の気のいい青年で、トラックの運転助手を務めていた。とりたてて才能があったわけではない。野心を抱くほどの傲慢さもなかった。

 きつい顔つきの小柄な運転手が、彼に代わって夢を見た。「ジム、おめえ、テレビに出てみないか? おめえほど見栄えがすりゃ、おれだったら絶対そうしてるぜ。テレビじゃあ、平凡な好青年ってやつが好きなんだ。とりたててぱっとしねえようなやつがな。一般出場者としてぴったりなんだ。だれでもそんなやつが好きだからな。やってみろよ」

 言われるまま彼はやってみた。地方テレビ局の支配人が、もっと詳しい説明をしてくれた。

「ジム、大衆は鍛え上げられた運動選手がどれだけすばらしい反射神経を見せようが、プロ根性を見せつけようが、そんなものには飽き飽きしてしまっているんだ。だれがそうした連中に感動できる? 感情移入ができる? 確かに世間の人間はワクワクするようなものは見たがってはいる。だがな、利口ぶったやつが一年に五万ドル稼ぐようなものはお呼びじゃないんだ。だからきちんとお膳立てされたようなスポーツ番組ってのは、どれも不調なのさ。代わりにスリル番組がヒットしてるんだ」
 
「はあ」レイダーは答えた。

「六年前、議会は任意自殺法を通過させた。当時、古い議員連中は自由意思だの自己決定権だのさんざん言い合ったもんだ。だが、そんなヨタ話なんてどうだっていい。問題はその法律が本当は何を意味してるかってことだ。そいつはな、素人がでかい賞金目当てに、自分の命を危険にさらしたってかまわない、ってことなんだ。プロがやるんじゃなきゃな。昔はプロのボクサーやフットボールやホッケーの選手でもならなきゃ、頭を殴られて金を稼ぐことは違法だった。だが、いまじゃ一般人にもそのチャンスが開かれたってわけだ。おまえさんのような人間にもな、ジム」

「はあ」レイダーはまたそう言った。

「これはどでかいチャンスなんだぞ。そいつをつかまえるんだ。君にはこれといって並はずれたようなところはないだろう、ジム。君にできることなら、ほかの誰だってできる。君はまさに平均値なんだ。スリル番組にうってつけだ」

 レイダーは夢を見てもいいのかもしれない、と思った。才能もなければ訓練も受けていない、気のいいだけの若い者にとって、テレビに出ることは金持ちになる確実な道かもしれなかった。そこで『一か八か』という番組に、写真を同封して手紙を出したのだった。

『一か八か』は彼に興味を持った。JBC局は調査した結果、彼がまったく平凡な人間で、これ以上ないほどのうるさ型の視聴者さえ、文句のつけようがないことがわかった。親兄弟や関係者に至るまでが調査された。そしてとうとう彼はニューヨークに呼ばれて、ミスター・ムーランの面接を受けたのだった。

 ムーランは色の浅黒いエネルギッシュな人物で、しゃべるあいだもガムを噛むのをやめなかった。「君ならいけるよ」語気鋭く言った。「だが『一か八か』じゃない。『転落』に出るんだ。3チャンネルの昼間の30分番組だ」

「すごいや」レイダーは言った。

「礼には及ばんよ。一位か二位になれば賞金千ドル、負けても残念賞が百ドル。だがそんなことはたいしたことじゃない」

「そういうものですか」

「『転落』なんてつまらんショーだよ。JBCでは試験として使ってるんだ。『転落』で二位以内に勝ち残った者は、つぎの『非常事態』に移ることになる。『非常事態』での賞金は、はるかに高額だよ」

「それは知ってます」

「もし君が『非常事態』でいい仕事をしたなら、一流のスリル番組、『一か八か』とか『海底危機一発』が待っている。こいつらは全国ネットで放送するし、賞金もとんでもない額になる。そうしていよいよ一流になるんだ。どこまでいけるかは、君にかかっている」

「ベストをつくします」レイダーは言った。

 ムーランは少しの間、ガムを噛むのをやめて、おごそかともいえる口調で言った。「君ならやれる、ジム。だが、忘れるんじゃない。君はありふれた人間だ。ありふれた人間というのはな、なんだってできるんだ」

 そのいい方を聞いていると、レイダーはつかのまミスター・ムーランが気の毒になった。色の黒い、ちりちり頭で飛び出した目をしたミスター・ムーランは、どう考えてもありふれた人間とは言い難かった。

 ふたりは握手を交わした。そのあとレイダーは、自分が競技中に生命や四肢、あるいは理性を失ったとしてもJBCの一切責任を問わないという内容の書類にサインした。さらに、任意自殺法に基づく権利を行使する、という別の書類にもサインした。これは法が求めるだけで、単に手続き的なものに過ぎなかった。

三週間後、彼は『転落』に出た。

(この項つづく)