先日まで訳していたロバート・シェクリィの「危険の報酬」はいかがでしたか?
なかなかおもしろかったでしょう。
ちょっといま忙しくてなかなか手直しする時間がとれないのだけれど、来週あたりにはアップするつもりでいますので、お楽しみに。
ところで、あれはよくできた短篇だと思うのだけれど、一点、悪役の造型がうまくいってないように思える。トンプソン一家がなぜ主人公をつけねらうのか、彼らが反社会的な人間だから、というのでは、理由になっていないだろう。
その昔「いい人、悪い人」(いま気がついたが、わたしはこのログをこのタイトルで書いたのを忘れて、後日「良い人? 悪い人??」という文章も書いている。内容的にはちがうものなのだが、わたしはほんとうにタイトルのつけかたに芸がないなあ)という文章のなかで、スティーヴン・キングの「スタンド」が原作のドラマにふれているのだが、このドラマでも、いわゆる「悪いやつ」を集めただけでは、決して悪いことはできないことが、制作者の意図に反して明らかになっていた。
わたしたちはふつう悪いことをするのは悪い人間だと考える。
ところが実際には、事件が起こり、報道され、犯人がつかまった段階で、その犯人を「悪い人間」と見なすのである。「あの人がねえ、人は見かけによらないわねえ」と思うか、「前から臭いと思ってた」と思うかは、情況によるだろうが。
だが、彼らの多くは「悪い」といえるのだろうか。単に反社会的であるに過ぎない場合がほとんどではあるまいか。
強盗をする、暴力行為をする、詐欺を働く……などといった、個人的なレベルの反社会的な行為なら、いわゆる「悪い人間」、つまりは反社会的で、共同体の一員としてふさわしくないような人間でも可能だ。だが、トンプソン一味のように、組織を作り、継続的に、長期に渡って集団で「悪事」をなそうと思ったら、それは反社会的な人間には不可能だ。組織の一員として規律正しく行動することができるメンバーを集めなければならないし、彼らを動かすリーダーには、人格的な魅力だって必要だ。金で動く、あるいは恐怖政治によって支配する、そんな組織ではまともな活動は期待できない。そう考えていくと、組織の成員を納得させられるような思想だって必要だろう。もちろん彼らを養っていくための資金力が必要なことは言うまでもない。そうして彼らは自分たちの行動が悪いことだなどとはみじんも考えていないのだ。
ミステリだって、ミステリというジャンルが確立した最初の頃には「悪い人間」が犯人だった。シャーロック・ホームズには悪の天才モーリアティ教授が出てくるし、明智小五郎には怪人二十面相だ。だが、アガサ・クリスティになると、もうちょっと話は複雑になってくる。犯人は邪悪な一面を密かに抱えている人物だったり、邪悪さまではいかない、単におそろしく自己中心的だったり、あるいは愚かだったり、情況によってはだれもが犯人になりかねないような作品をいくつも書いた。そうなると、犯人の造型もぐっとむずかしくなってくる。クリスティ以降、動機に重点が置かれ、金銭や人と人の愛憎が絡み合い、悪い人間が犯人などという単純な図式は成立しにくくなった。一方で、モーリアティ教授などのような人物は、どこかお伽噺のように見えてくるようになった。
ところがヴェトナム帰還兵が犯人、というあたりが嚆矢なのだろうか、いつのまにかミステリでの犯人の主流は、精神状態に異常を来した人物、一種のモンスターになってしまった。「悪い人間」のかわりに「頭のおかしい人間」「人間の皮をかぶったモンスター」が犯人、というミステリが、どっとあふれたのである。これは一種の先祖返りというべきで、動機も何もあったものではなく、おかしい人間だからそういうことをする、というのである。
こうしたミステリが主流になったころから、わたしはこの手の本を読まなくなってしまったので、いまの主流がどうしたものかはほとんど知らない。
だが、もしいまもこの情況が続いているとしたら、もしかしたら、これは現実を反映しているのかもしれない、とも思うのである。
現実の犯罪というのは、どこまでいってもわたしたちにはよくわからないものが多い。どれだけ報道されても、一向にわからない。
そんなとき、「わたしたちと同じ人間が、否応なく追い込まれてやってしまった」と考えるより、「悪い人間だからそういうことをする」「おかしな人間だからそういうことをする」と考えた方が、少なくとも安心できる。わたしたちとは縁もゆかりもない人間なのだから、と。
シェクリィの話が、最近になって書かれたものなら、おそらくトンプソン一味はきっと顔の売れていない役者が演じるのだろう。「善きサマリヤびと」たちは、原作でもいまで言うところの「やらせ」らしいが、同じようにレイダーも、視聴者の代表などではないだろう。おそらく全員がやらせで、そうして視聴者も、おそらくそうだろう、と思いながらも、どこかでそうでないかもしれない、と期待しながら見るにちがいない。
シェクリィの目から見れば、そんなわたしたちは、奇妙に映るかもしれない。よくそんなまがいもので楽しむことができるな、と。
なかなかおもしろかったでしょう。
ちょっといま忙しくてなかなか手直しする時間がとれないのだけれど、来週あたりにはアップするつもりでいますので、お楽しみに。
ところで、あれはよくできた短篇だと思うのだけれど、一点、悪役の造型がうまくいってないように思える。トンプソン一家がなぜ主人公をつけねらうのか、彼らが反社会的な人間だから、というのでは、理由になっていないだろう。
その昔「いい人、悪い人」(いま気がついたが、わたしはこのログをこのタイトルで書いたのを忘れて、後日「良い人? 悪い人??」という文章も書いている。内容的にはちがうものなのだが、わたしはほんとうにタイトルのつけかたに芸がないなあ)という文章のなかで、スティーヴン・キングの「スタンド」が原作のドラマにふれているのだが、このドラマでも、いわゆる「悪いやつ」を集めただけでは、決して悪いことはできないことが、制作者の意図に反して明らかになっていた。
わたしたちはふつう悪いことをするのは悪い人間だと考える。
ところが実際には、事件が起こり、報道され、犯人がつかまった段階で、その犯人を「悪い人間」と見なすのである。「あの人がねえ、人は見かけによらないわねえ」と思うか、「前から臭いと思ってた」と思うかは、情況によるだろうが。
だが、彼らの多くは「悪い」といえるのだろうか。単に反社会的であるに過ぎない場合がほとんどではあるまいか。
強盗をする、暴力行為をする、詐欺を働く……などといった、個人的なレベルの反社会的な行為なら、いわゆる「悪い人間」、つまりは反社会的で、共同体の一員としてふさわしくないような人間でも可能だ。だが、トンプソン一味のように、組織を作り、継続的に、長期に渡って集団で「悪事」をなそうと思ったら、それは反社会的な人間には不可能だ。組織の一員として規律正しく行動することができるメンバーを集めなければならないし、彼らを動かすリーダーには、人格的な魅力だって必要だ。金で動く、あるいは恐怖政治によって支配する、そんな組織ではまともな活動は期待できない。そう考えていくと、組織の成員を納得させられるような思想だって必要だろう。もちろん彼らを養っていくための資金力が必要なことは言うまでもない。そうして彼らは自分たちの行動が悪いことだなどとはみじんも考えていないのだ。
ミステリだって、ミステリというジャンルが確立した最初の頃には「悪い人間」が犯人だった。シャーロック・ホームズには悪の天才モーリアティ教授が出てくるし、明智小五郎には怪人二十面相だ。だが、アガサ・クリスティになると、もうちょっと話は複雑になってくる。犯人は邪悪な一面を密かに抱えている人物だったり、邪悪さまではいかない、単におそろしく自己中心的だったり、あるいは愚かだったり、情況によってはだれもが犯人になりかねないような作品をいくつも書いた。そうなると、犯人の造型もぐっとむずかしくなってくる。クリスティ以降、動機に重点が置かれ、金銭や人と人の愛憎が絡み合い、悪い人間が犯人などという単純な図式は成立しにくくなった。一方で、モーリアティ教授などのような人物は、どこかお伽噺のように見えてくるようになった。
ところがヴェトナム帰還兵が犯人、というあたりが嚆矢なのだろうか、いつのまにかミステリでの犯人の主流は、精神状態に異常を来した人物、一種のモンスターになってしまった。「悪い人間」のかわりに「頭のおかしい人間」「人間の皮をかぶったモンスター」が犯人、というミステリが、どっとあふれたのである。これは一種の先祖返りというべきで、動機も何もあったものではなく、おかしい人間だからそういうことをする、というのである。
こうしたミステリが主流になったころから、わたしはこの手の本を読まなくなってしまったので、いまの主流がどうしたものかはほとんど知らない。
だが、もしいまもこの情況が続いているとしたら、もしかしたら、これは現実を反映しているのかもしれない、とも思うのである。
現実の犯罪というのは、どこまでいってもわたしたちにはよくわからないものが多い。どれだけ報道されても、一向にわからない。
そんなとき、「わたしたちと同じ人間が、否応なく追い込まれてやってしまった」と考えるより、「悪い人間だからそういうことをする」「おかしな人間だからそういうことをする」と考えた方が、少なくとも安心できる。わたしたちとは縁もゆかりもない人間なのだから、と。
シェクリィの話が、最近になって書かれたものなら、おそらくトンプソン一味はきっと顔の売れていない役者が演じるのだろう。「善きサマリヤびと」たちは、原作でもいまで言うところの「やらせ」らしいが、同じようにレイダーも、視聴者の代表などではないだろう。おそらく全員がやらせで、そうして視聴者も、おそらくそうだろう、と思いながらも、どこかでそうでないかもしれない、と期待しながら見るにちがいない。
シェクリィの目から見れば、そんなわたしたちは、奇妙に映るかもしれない。よくそんなまがいもので楽しむことができるな、と。