陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

火事の思い出(前編)

2009-01-27 23:02:16 | weblog
火事に遭ったことがある。
当時、わたしのいたアパートの真下の部屋から火がでたのである。

冬の朝、洗濯物を干そうとベランダに出たところで、物が焦げるような臭いに気がついた。外を見ると、下の部屋から少し灰色がかった白い煙が上がってくる。一瞬、バルサンを焚いているのかと思ったが、バルサンは部屋を閉め切って焚くものだし、焚き終えて換気をしているのなら、あんなに出るものではあるまい。第一、この臭いは明らかに何かが燃えている臭いだ。火事だ!

すぐさま管理人室に電話をかけた。ところが通じない。部屋を飛び出すと、下から盛んに煙が上ってくるのが見える。ベランダの比ではない。隣のドアフォンを鳴らして「下の部屋が火事です」と知らせた。当時の隣の人は、そこのアパートの世話役をやっていたおじいさんだったのだ。非常ベルを鳴らし、「わたしは消防署に電話をかけます」といって部屋に戻った。隣のおじいさんは下へ降りた。

消防署に電話をかけた。住所を告げているあいだにも、煙の色はどんどん濃くなり、部屋のなかから見えるほど、煙の勢いは盛んになってくる。部屋にも煙がどんどん入ってきた。なんだか足の裏も温かくなってきた、と思ったら、パリーンと窓ガラスの割れる音がした。電話をし終えて、まず、開けたままになっていた窓を閉めようと窓ガラスに近寄ると、真っ黒い煙とすすが上ってくる。わたしはあわてて窓を閉め、携帯と現金と上着とパソコンのUSBだけを持って、出がけに電気のブレーカーを落として外に出た。

部屋を出ると、非常階段から上がってくる煙が真っ黒く、一寸先も見えない。口を袖口で押さえ、涙をぽろぽろながしながら、アパートから外へ出た。するとそこで隣の家の奥さんの方が、「主人は、主人はいませんか」と探している。ご主人が消火活動をしようとして、煙に巻かれたのではないか、と心配していたのだ。うわ、わたしだけ逃げ出したみたいになっちゃったんだ、どうしよう、と焦りだしたところで、やがて隣のおじいさんを含めて数名の人が、そこの家は無人で、玄関に鍵がかかっていたのだが、玄関脇の風呂場の窓を割って、そこから消火器を何台も突っ込んで、消火しようとしていたことがわかった。ただ、煙があまりひどいので、あきらめてそこを離れ、みんなが避難している場所に戻ってきたのだった。

消防車が来た。救急車も来た。ところが玄関の扉が開かない。合い鍵もない。消防車が来てから、階段を上がったり降りたり、ホースをのばしたり、消火栓に接続したり、忙しく立ち働く人は大勢いたのだが、実際に消火活動がなかなか始まらない。わたしはガスの元栓を閉めなかったことを思い出し、閉めに戻ろうか、と思ったのだが、非常階段からの煙がひどく、そちらには近寄ることもできない。いや、ガスが問題になるとしたら、ウチより先に下の階のはずだ、とあきらめることにした。自分の部屋は気になったが、そこから見ている限り、ウチの方から煙が吹き出してはいないので、大丈夫だろうと思うことにした。

あとはただ、見ているしかない時間が続いた。

そのとき、わたしはこれは何かのメタファーみたいだなあ、と思ったのだった。
自分の足のすぐ下で、窓ガラスが熱で割れるほどの火事が起こっている。
なのに自分は何もできない。することがなくて、ただ見ているしかない。
おそらく断熱材のおかげで、ウチの部屋が類焼することはないだろう。だから、被害といってもそれほどのことはないだろう。
いま怖いけれど、どこかで自分は安全なんだ、とも感じている。これはいったい何のメタファーなんだろう、と、ずっとそんなことを考えていたのだった。

煙の色も変わり、やがてそれもあがらなくなった。仕事に行けるのだろうか、と時計を見たら、三十分もたっていなくて、もっと時間が経過したと思っていたわたしは、少し驚いたのだった。

(後編へ)