陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

半世紀前のやらせ(後編)

2009-01-23 23:29:45 | weblog
(承前)

1950年代、テレビの最大の売りは、「視聴者が生の現実に立ち会う」ということだった。
ラジオは音声はあっても画像がない。映画は画像はあるが、リアルタイムで進行する現実には立ち会えない。いくらドキュメンタリー・フィルムやニュース映画であっても、編集の手を経ているし、出来事が起こってから時間が経過していることは避けられない。

その点、テレビはライヴ映像はうそをつかない。「ありのままの現実」を目の前で繰り広げてくれる、それがテレビだ、といわれていたのである。

ところが1959年に発覚した「クイズ・ショー・スキャンダルズ」は、「ライヴ番組」と思われていたクイズ・ショーが、台本があり、リハーサルがなされて、実際にはドラマと何ら変わりのないものであることがあきらかになったのだった。

当時のクイズ番組の司会者となったジャック・バリーは、のちにこのように語っている。
最初の何週間かは、われわれはこうした工夫(答えを事前に回答者に教えること)をしませんでした。しかし、三、四週間やってみて、ほとんど全部の問題にまったく答えられない解答者が二人ほど出てきました。それは酷いものでした。スポンサーと広告代理店が電話をかけてきて「二度とこんなことを繰り返すな」といってきました。
(『テレビの夢から覚めるまで ―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史―』)

当時、スポンサーは番組の放送に立ち会っていた。スポンサーとしてみれば、ラジオとは較べものにならないほどの巨額の広告費を支払っているのである。自分たちに口を出す権利は十分あると考えていたのである。

一方、制作者の側も、より多くの視聴者に喜んでもらうために、演出は必要だと考えていた。

ところが制作され、スポンサーのついた番組を放送するネットワークは、そこまで開き直るわけにはいかない理由があった。先にもあげたようなテレビにしかない機能「視聴者が生の現実に立ち会う」ということをつねづね主張してきたのはネットワークだったからである。さらに、スキャンダルが公序良俗に反するものと見なされるならば、放送免許の更新を拒否される可能性もあったのだ。

クイズ・ショーで不正を告白したチャールズ・ヴァン・ドーレンは、証言の後、大学を解雇された。番組プロデューサーたちは不正を認めたが、「業界の常識」であると主張した。そのうえで、スポンサーの関与は否定した。というのも、指示があったと証言すれば、今後、テレビの世界で仕事をすることなど、望めなくなってしまうからだった。
当然、スポンサーは不正操作への関与を否定した。
さらに、ネットワークは軒並み、クイズ番組を放送中止にし、番組プロデューサーとの契約を破棄し、「とかげのしっぽ切り」を進めたのである。さらに、悔悛の情と再発防止の熱意を示すために放送コードを定め、番組の自己検閲のシステムを強化した。そうするなかで、番組制作をスポンサー主導から、ネットワーク主導へとシフトしていったのである。
この三年間の人生の軌跡を変えることができるなら、私はなんでも差し出すでしょう。私は、自分のいったこと、したことを取り返すことはできません。だれにとっても過去は変わらないのです。しかし、少なくとも、過去から学ぶことはできます。……私はこの三年間に、とくにこの三週間に、多くを学びました。私は、人生について、多くを学びました。私は、私自身について、そして人間が他の同胞に果たすべき責任について、多くを学びました。私は善と悪について、多くを学びました。それらは必ずしも見かけと同じものではありませんでした。私は詐欺に深く関わりました。そして、私もまたかなり騙されていたという事実があっても、私がその詐欺行為の最大の犠牲者だということにはなりません。なぜなら、私がその象徴的存在そのものだからです。

チャールズ・ヴァン・ドーレンは公聴会でこう証言したが、実際にはこの「クイズ・ショー・スキャンダルズ」が暴いたのは、結局のところ、ドーレンが回答できたのはあらかじめ仕組まれていた、という以上のものではなかったのだ。

だが、この半世紀前の事件を本で読みながら、わたしは奇妙な気がしてならなかった。
番組を盛り上げるための「やらせ」、つまり台本・演出・リハーサルにしても、スポンサーの問題にしても、視聴率のことにしても、わたしたちが今日テレビの問題として思いつくことは、すべて半世紀前に出尽くしているからだ。

本書の最初の方で筆者は、1951年のクリスマスに放送されたコマーシャルをふまえて、このように書いている。
このコマーシャルからもわかるように、1950年代の初めにおいて、テレビ受像器はアメリカ人の夢を叶える機械だった。……このコマーシャルを見て、何百万人ものアメリカ人がこう思ったに違いない。……テレビは、神からのプレゼントだ。われわれは、このプレゼントを手にして、娯楽のことばかり考えるのではなく、人類への善意と地上の平和のことを、そして、それをいかに役立てるかをも考えなければならない。テレビを通じて、いかにひとびとの蒙を啓き、偏見を根絶し、理解を深めるかに心をくだかなければならない。テレビこそ、その未来を開いてくれるだろう。

クイズ・ショー・スキャンダルズが起こったのが、それからわずか8年後の1959年である。そのあいだに問題になったことは、いまも解決されることなく持ち越されているのだ。

テレビに人びとが夢見たということは、少なくとも、テレビにそれだけの可能性があったということだろう。それは、可能性だけで潰えてしまったのか。それとも、まだ「蒙を啓き、偏見を根絶し、理解を深める」ためのツールでありうる可能性は残っているのか。

それはなによりも、視聴者であるわたしたちの問題であるのだろう。