陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

あけましておめでとうございます

2009-01-03 22:55:51 | weblog
あけましておめでとうございます。
2009年版の占いにも拙ブログに二百人ちょっとの方が足をお運びくださってありがとうございました。検索で飛んでいらっしゃった方が、インチキではないかと腹を立てず、笑ってくださったら良いのだけれど。
良かったら、またときどき遊びに来てください。

そうして、いつも遊びに来てくださる方、本年もどうぞよろしく。
翻訳と、本を読んで考えたあれやこれやと、身の回りのあれやこれや、たまに音楽や映画の話なども織り混ぜながら、今年も歩くペースでやっていきます。
こういう本が読みたい、こんな翻訳が読んでみたい、あの曲は何て歌ってるの……そんなリクエストがありましたら、どうぞお気軽にお寄せください。



元日の朝、初日の出を拝もうとベランダに出てみました。
東の空には灰色の雲が広がっていたのですが、やがて雲の色が薄くなり、その向こうに日が昇ったのがわかりました。やがて雲の切れ間から差しこむ日の光の筋が幾本も見え、新しい年の日の光を見ることができました。

朝日にしても、夕日にしても、あるいは夜空にしても、人間はどうしてはるか遠くを見るのでしょう。空を見上げる必要なんて、出かけるときに傘が必要か、洗濯物が干せるかどうかを確かめるとき以外はほとんどないのかもしれません。あわただしい毎日が続くようなとき、空を見上げることも忘れてしまうこともあるでしょう。

それでも、遠くを見つめているうちに、不思議と心は安らぎます。

考えてみれば、わたしたちの体を構成する元素は、すべて宇宙からやってきたものです。わたしたちの体は、文字通り「星のかけら」です。M78星雲の彼方からやってきたウルトラマンならずとも、だれものほんとうの故郷は宇宙。だからこそ、空を見上げると心が安らぐ、というのは、むちゃくちゃな理屈なんでしょうか。

新しい年の太陽の光を見ながら、わたしは今年もまた良い年でありますように、と、誰か、もしくは何ものかに祈ったのでした。


小学生の国語の問題集から見つけた詩をもうひとつ。



     きょうという日   室生犀星

時計でも
十二時を打つとき
おしまいの鐘をよくきくと、
とても、大きく打つ、
きょうのおわかれにね、
きょうがもう帰って来ないために、
きょうが地球の上にもうなくなり、
ほかの無くなった日にまぎれ込んで
なんでもない日になって行くからだ、
茫々何千里の歳月に連れ込まれるのだ、
きようという日、
そんな日があったか知らと、
どんなにきょうが華やかな日であっても、
人びとはそう言ってわすれて行く、
きょうの去るのを停めることが出来ない、
きょう一日だけでも好く生きなければならない。


柱時計の音を聞くこともなくなりました。それでも、静かな夜に鳴る柱時計の鐘が静けさをいっそう際だたせることは想像できます。
その音が「きょう」という日の終わりを告げる。
「きょう」は「昨日」になって、どこかにいってしまう。それはもはやわたしたちから永遠に失われてしまいます。
わたしたちは簡単に「明日がある」「明日またやればいい」なんて思ってしまうけれど、「きょう」が失われてしまうということを、忘れないようにしよう。
「きょう一日だけでも好く生きなければならない。」ということを、いつも頭のどこかに留めて置こう。

おそらくこの詩をもとに問題を作った人は、そういうことを小学生に理解させようとして採用したのだろうと思うのですが、こういうことはいくら言われてもわかるものではない。毎日毎日を無為に過ごし、ああ、今日も何もできなかった、とほぞを噛むような夜を幾夜も重ねたあげく、そのなかから自分がつかみだす真実のようにわたしは思うのです。

新しい年は、古い年が去っていくことを同時に意味する。
毎日、毎日が去っていく。
それがどういうことか、やっとわたしにもわかってきた。だから、
「きょう一日だけでも好く生きなければならない。」

そんな日を、一日でも積み重ねていきたいと思います。

今年がみなさまにとってすばらしい年でありますように。

今年もよろしく。