陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

軍医森林太郎と脚気の話6.

2008-12-20 22:19:38 | weblog
6.脚気と日露戦争と森林太郎

明治30年、陸軍の医務局長は、石黒忠のりが辞め、森林太郎と同期の小池正直が医務局長に就任する。小池正直は就任当初、森林太郎の報告を理論的裏付けとして、従来の陸軍の兵食を擁護し、西洋食を批判していた。だが、医務局に蓄積されていた資料を整理しなおすなかで、麦飯の紅葉を認めるようになっていく。そうして明治32年「脚気と食物との関係における学理は若(かくのごと)く不明なりといえども、その関係は果たして原因的関係なりや、将(はたま)た偶発的関係なりやは正確なる統計によりて概ねこれを窺(うかが)うことを得べし。もし以て原因的関係あることを知るにおいては学理の如何はしばらく措(お)き、その実効はこれを認めざるべからず」(小池正直「脚気と麦飯との関係」板倉聖宣『模倣の時代(下)』)として、以下統計をもとに麦飯による脚気減少の「原因的関係」を明らかにしていったのである。

一方、森林太郎である。林太郎は小池と東大医学部で同級生ではあったが、なにしろ十二歳で入学した林太郎だから、小池正直は八歳年長である。その年齢差を考慮すればかならずしも出世競争で林太郎が遅れをとったとも言えないだろうが、さらに陸軍軍医部長が二名、軍医監に昇任したが、その一名も同級生だった。そうして林太郎は一等軍医正のままに留まる。やがて明治32年、軍医監に任じられたものの、福岡県小倉の第十二師団の軍医部長となって、東京の地を離れることになる。この小倉派遣を「左遷」と見るかどうかは評価の分かれるところなのだが、少なくとも林太郎自身は「左遷」と受け取ったようだ。

明治34年、小倉の地で、林太郎は「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたる因する乎」と題する論文を発表した。そのなかで、小池正直と同じように、統計表を示しながら脚気が減少したことを認める。だが、そののち「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果(Post hoc ergo propter hoc)の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」と異議を申し立てるのである。

森林太郎は「蘭領インド」(現在のインドネシア)の脚気患者と日本の脚気患者数を比較して、その時期が重なり合っていることをあきらかにし、〈日本の陸軍や海軍の脚気激減は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって、兵食改善等の結果ではない〉と結論づける。
 海軍や陸軍で脚気を撃滅のために努力してきた人々を馬鹿にしたような話である。
 しかし、いくら人を馬鹿にしたような話でも、それが真実である可能性があるならば、そういう話もむげに非難してはならない。それにしても、こういう話を聞いたとき、当事者の人々が、それを〈人を馬鹿にした話〉として受け止めざるを得ないのは何故だろうか。それは、
〈どこでも、脚気撲滅のために麦飯を実施したその年から脚気が激減している〉
というよく知られていた事実を無視しているからである。
 全体だけを見れば、〈日本の陸軍の脚気が、たまたま麦飯の実施の時期に自然に激減する時期にあった〉というようなことを考えるのもあながち不当ではないかもしれない。しかし、陸軍における麦飯の採用は師団によってまちまちに行われたのである。その各師団ごとに見て、脚気が麦飯を実施した年から激減した事実をみな偶然の結果と解することはできない。…略…
 彼は〈脚気が兵食改善によって絶滅された〉という事実をあくまで認めたくなかったのだ。その党派的な考えに囚われたために、普通の人々には気づき難い事実の発見に彼を走らせ、その反面、普通の人々にもわかりやすい論理が見えなくなってしまったのである。
(板倉聖宣『模倣の時代(下)』)

森林太郎は明治三十五年、九州小倉の第十二師団の軍医部長から、第一師団の軍医部長に転任することになり、再び東京に帰ってくる。

明治37年2月、日露戦争が始まった。戦争が始まると、陸軍医務局長の小池正直が全軍の衛生問題・兵食問題を統括することになった。ところが麦飯と脚気の〈原因的関係〉を認めたはずの小池だったが、兵食は米食となった。日露戦争後、責任を問われた陸軍医務局の田村俊次は、挽き割り麦は虫が付きやすく、輸送上困難だったため、37年4月までは一粒の麦も送らなかった、と弁明しているが、その真相はよくわからない。
〈もしかすると、小池衛生長官は、森林太郎の反撃にあって、麦飯の有効性に対する自信を揺さぶられた結果、無理してまでも麦を輸送することを考えなくなっていたのではないか〉とも疑われてくる。ともかく、小池衛生長官は挽き割り麦の輸送を指示しなかったのである。

その結果、日露戦争での脚気患者数は25万人、脚気による死者は27,800余名という大変な事態になった。一方、海軍はほとんど脚気患者を出すことはなかった。高木兼寛の麦飯の脚気予防効果の根拠は、当時の栄養学の知識をもってしても誤っていたのだが、麦飯が脚気に現実に有効であることはまったく別の問題だったのである。

特に海軍の側から、陸軍は厳しい批判にさらされることになる。森林太郎が小池正直の跡を継いで医務局長に就任したのはその時期だった。

(いよいよ明日最終回)

軍医森林太郎と脚気の話5.

2008-12-18 22:19:56 | 
5.エイクマンの発見

日本で海軍と陸軍のあいだで、兵食と脚気問題の論争が続いているころ、オランダの植民地ジャワ島で、興味深い事実が発見された。

先に北里柴三郎がオランダ人医学者による脚気菌の発見について、その手続きの不備を指摘したことを書いたが、「発見」したと信じたペーケルハーリングとウィンクラーはオランダに帰国して、脚気菌の発見を論文にまとめた。その後ジャワ島で研究を続けたのがエイクマンである。ふたりの「発見」した脚気球菌で脚気を発生させようと実験を続けたのだが、実験は成功しなかったのである。ところが1896(明治二十九)年、実験動物であるニワトリが脚気に似た病気に罹っていたのである。陸軍病院の残飯=白米を食べていたニワトリだった。そのニワトリを詳しく調べようとよそに移したところ、脚気が治ってしまったのである。

そこからエイクマンは飼料に目をつけた。病気のニワトリの飼料は陸軍病院の将校の残飯、場所を移したニワトリの飼料は玄米か籾米だったのだ。そこからエイクマンは白米と玄米の違いを研究し始めたのである。

白米、米、玄米とさまざまな実験を経たのち、玄米は完全な食品だが白米はニワトリの生存に必要なものが欠けている、米ぬかにはその不足しているものが含まれている、と考えたのである。

当時の医学者たちは、〈澱粉・脂肪・蛋白質・塩類〉のほかに動物の成育に必要な栄養素があると考えることはできなかった。だが、エイクマンの研究によって、米そのものが脚気を引き起こすのではなく、玄米を精白した白米だけが脚気の原因になること、米ぬかには脚気の予防・治療効果があるらしいことがわかってきたのだった。

日本ではこのエイクマンの研究は、陸軍依託学生として大学院に在学していた山口弘夫によって追試・報告され、多くの日本人関係者の知るところとなった。ところが白米と玄米、麦飯や米ぬかなどの食物の問題についての本格的な研究は始まらなかったのである。

(この項つづく)




軍医森林太郎と脚気の話4.

2008-12-17 22:40:57 | weblog
4.日清戦争始まる

日本の軍隊における脚気は、明治二十五年ごろにはほとんど絶滅状態になっていた。大阪鎮台に始まった麦飯は、明治二十四年までに全師団に拡がり、麦飯の採用と脚気の激減の相関関係は明らかであるように思えた。ところが陸軍軍医本部の人びとは、麦飯が脚気に効くという学理があきらかでないことを理由に、この脚気患者の激減も、まったくの偶然であるとみなしていたのだ。

平時であれば、たとえ議論が平行線をたどっていてもかまわない。だが、明治二十七年、日清戦争が始まる。そうなると、兵食の支給は各師団ごとということではなく、大本営の命令に従うことになるのだ。大本営の会議では兵食をどうするか問題になった。陸軍医務局長の石黒忠なお(※直の下に心)は学理的な根拠がないことを理由に、麦飯を送ることに反対する。そうして、その理論的裏付けとなったのが陸軍医学校長であった森林太郎の研究の成果だったのである。

明治二十一年、ドイツから帰ってきた森林太郎は「非日本食はまさにその根拠を失わんとす」と講演をおこなう(のちにこの講演をもとに『非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス』という著書を発表する。これが彼の初の著作となった)。

そのなかで、林太郎は食物は蛋白質・脂肪・澱粉類等からなることを説明しながら、日本の食糧問題に応用し、かつてドイツ留学時代にまとめた〈日本の兵食は米を減じ魚獣の肉を増〉せば栄養学的に問題ない、という立場を改め、従来からの日本食こそ、日本人の健康にはふさわしい、と、積極的に擁護する側に回ったのだった。以降、森林太郎は、兵食を洋式にすることはもちろん、麦飯にすることにも強い反対を貫くようになる。

そうして日清戦争での兵食は白米だけを輸送することになったのだが、その結果はどうだったのだろう。『模倣の時代(下)』には明治四十年陸軍省医務局が報告した『明治二十七八年陸軍衛生事蹟』が引用してあるのだが、それによると、陸軍の脚気患者数は41,431名、脚気による死者の数は4,064名。戦死・戦傷死者数が453名であるから、実際に戦争によって死亡した9倍近い兵士が脚気によって亡くなったのである。

だが、陸軍軍医部の中心にいた人びとは、学理的に根拠のない麦飯の効用を認めず、「戦時脚気の恐ろしさ」を再認識したに留まったのだった。

(今日は日露戦争まで話がすすまなかった…。たぶんあと二回で終わるはず)

軍医森林太郎と脚気の話3.

2008-12-16 22:36:35 | weblog
(※いま体調を崩していて、多忙と不調が重なって、なかなかこちらまで手が回らないのですが、無理をしないようにぼちぼちやっていきます)

その3.脚気菌か麦飯か

森林太郎と北里柴三郎は、ともに東大医学部予科の前身、東京医学校で学んでいる。北里は林太郎より十歳年長だったが、明治七年に年齢を二歳上に偽って十二歳で入学した林太郎(当時の入学資格は十四歳以上、十九歳以下だった)に対して、北里の場合は明治八年に生年を四年偽って、二十三歳で入学した。明治十四年、二十歳で林太郎が卒業したのに対し、北里は明治十六年に卒業することになった。卒業後、林太郎は陸軍に入り、陸軍軍医としての道を歩んでいくことになるが、北里は内務省衛生局に入ることになる。

ところが内務省で事務的な仕事に従事しているうちに、東大医学部での先輩緒方正規がドイツ留学から帰国、衛生局の東京試験所で細菌学の研究をすることになり、北里はその助手をつとめるようになる。

やがて北里にドイツ留学の機会が訪れる。北里はコッホについて勉強することを希望していたのだが、緒方正規は北里のために紹介状を書いてやった。

そのため、希望通りにコッホ研究所で研究者として働くうちに、北里はめきめきと頭角をあらわすようになる。そうしてオランダ領バタビアでオランダ人学者によって発見された「脚気菌」なるものが、細菌学の厳密な手続きを経たものでないと批判する論文を発表しつづいて日本でも師であった緒方が発見したとする「脚気菌」についても同様の批判を日本の雑誌に発表したのである。この行為はかつては師であった緒方に「弓を引いた」と、日本では問題になるのだが、一方、北里はドイツで破傷風菌の純粋培養に成功し、世界的な細菌学者となっていく。

さて、問題の「脚気」、日本ではまた別の方面からひとつの解決策が生まれていた。この立て役者は、林太郎と同じ陸軍でも、大阪鎮台の軍医部長堀内利国である。
堀内はあるとき部下から監獄で米飯を麦飯に変えたところ、脚気が減った、という話を聞く。そこで全国の監獄に情況を問い合わせたところ、現実にその現象が見られたというのだ。

奇妙なことに、監獄では白米ばかりが出ていた時期があったのだ。明治六年にアメリカの宣教師でもあった医師が囚人の診察に当たり、日本の監獄の待遇の非人道的なことを大久保利通に忠言した。そこで政府は全国の監獄の食料を白米百パーセントに切り替えたのである。ところが罪もない大多数の農民が白米ではない米に麦などを混ぜて食べているというのに、監獄の食事が白米百パーセントというのも奇妙な話である。そこで明治十四年、監獄の食料が見直されることになり、米麦混合になった。そうしてそれが監獄における脚気の減少につながったのだ。

堀内は、監獄において成果をあげた米麦の混食を、大阪の部隊で試験的に実施する。そうして、脚気の発生しやすい夏に、大阪では脚気の発生を見なかったのである。

海軍と大阪鎮台の麦飯の効果は、明治十八年頃には、徐々に知られるようになった。このままでいけば、日本の脚気は撲滅されたかもしれない。ところがそうはいかなかったのである。

(まだ続く)


軍医森林太郎と脚気の話(中)

2008-12-14 22:36:47 | weblog
2.脚気、海軍と陸軍の取り組み

日本の医学はドイツ医学をその範としていた。陸軍もドイツ軍隊をまた手本としていた。だが、海軍だけは当初よりイギリスに学び、イギリス方式を徹底して踏襲していたのだ。海軍省の軍医である高木兼寛もまたイギリスに留学してイギリス医学を身につけて帰国した。当時、学理医学を中心とするドイツ医学ばかりの日本にあって、臨床を重視したイギリスに学んだ高木兼寛はきわめて異質だったのである。

早くから脚気に注目していた高木は、まず脚気の流行状態を調査することから始めた。そうして当時主流だった脚気伝染病説に対して、暑さや湿気との相関関係は見られないことなどから、原因は食物に絞ることができると結論づけたのである。脚気は「炭素に対する窒素分が不足しているのではないか」という仮説を立て、調査を続けた。つまり、窒素というのはおもにタンパク質のなかにだけ含まれているから、炭水化物に対するタンパク質の割合を増やすことを解決策としたのである。

ところがこのような結論に達したからといって、即座に兵食を改善することは容易なことではない。まず〈金給制〉から〈現物支給制〉に改めなくてはならない。だが、このことは大きな反対に遭うことになった。それでも高木はさまざまな機会を通じて上申をつづけ、パンや肉類を含む〈欧州風食卓〉の試験的導入に成功する。理論はともかく、パン・肉の現品支給によって、脚気は現実的に減少していったのだ。

一方、陸軍の方はどうだったのか。実質的な陸軍の脚気対策の責任者であった軍医本部次長石黒忠のり(直の下に心)は、海軍の兵食改善路線に対して『脚気談』を著し、名前を挙げて高木兼寛を批判する。幕末以来日本人の肉食は増える一方なのに、脚気にかかる者は維新以前と比べると何倍も増えているではないか。地方より東京のほうが肉食する人が多いのに、東京の方に脚気が多いのはなぜか……。

そうして陸軍は、兵食の研究をさせるために、森林太郎をドイツに派遣したのである。その彼が兵食に関する研究の成果をはじめてまとめたのが「日本兵食論大意」という論文だった。
「世人の西洋食を国内に普及せしめんと希うは何故ぞや。けだし〈米を主としたる食は人民の心力及び体力を疲弊せしむる〉との思想より出でたること必然なり。かつて我が邦に在りしドイツ人ウェルニッヒの書に曰く。〈日本人は体格薄弱にして発育充分ならず。これその古来慣用する所の粗食によって然るものなり〉と。その他この種の説をなす者少なからず」
と書いて。その後に括弧を付して、用心深く
(米食と脚気の関係有無は、余敢えて説かず)
と記した。
 そして、その後さらに、
「余は東西人民の食を知る者なり。ドイツに来たりしよりは、ただ(※帝に口)に常人とその食を共にしたるのみならず、また野営演習の間、兵士とその糧を分かてり。また来責(ライプチヒ)大学の試験場(実験室)にては、食物に関する種々の試験をなしたり。余は以上述べる所の実験と、我が師プロフェッソル・フランツ・ホフマン氏及び他の欧州諸大家の論説に基づき、前記の説を排斥し、〈米を主としたる日本食はその味よろしきを得るときは、人体を養い、心力及び体力をして活発ならしむること、毫も西洋食と異なることなし〉と公言することを得るなり」
と書いた。
(板倉聖宣『模倣の時代(上・下)』(仮説社))

そうして林太郎は脚気の原因を病原菌に求めている。

それと軌を一にするかのように、明治十八年、日本では「脚気菌」が発見されたのである。
「発見」したのはドイツでコッホの高弟レフレルについて細菌学を学んだのち帰国した緒方正規である。緒方は間もなく東大医学部教授となって、日本で最初の細菌学の教授になったのである。ところが緒方の発見した「脚気菌」を追試して確かめることができなかった。

これを批判したのが北里柴三郎である。

(この項つづく)

軍医森林太郎と脚気の話(前編)

2008-12-12 23:14:06 | 
ここで森鴎外というか、軍医森林太郎と脚気問題について、簡単に見ておきたい。ここでおもな典拠としているのは板倉聖宣『模倣の時代(上・下)』(仮説社)である。

そもそも脚気というのは、ビタミンB1の欠乏によって起こる病気で、主として白米を主食とする地域に見られる病気である。日本では特に江戸中期、元禄のころから江戸の町で流行した。そのころから江戸ではそれまでの玄米食から白米食へと移り変わっていったのだ。

明治期になると、今度は軍隊で多発するようになった。貧しい農家や漁村の次男、三男が徴兵制で軍隊に入る。彼らにとって入隊する魅力は、白米をお腹一杯食べることができる、というものだった。やがて脚気になる。まず足がむくみ、息切れがするようになり、やがて心不全を起こして死に至る。1875年の陸軍の報告書によると、軍隊では百人中二十六人が脚気になり、死亡率は陸軍で22パーセント、海軍でも5パーセントだったという。脚気の蔓延は軍隊にとって、重大な問題だった。

いまのわたしたちは「脚気」というのがどういう病気なのか、何が原因によって発病するのか、どう治療していけばよいかの知識がある。だが、明治期には「どのような症状を脚気と呼ぶのか」という症状の定義から始めなければならなかった。

加えて、当時の日本は、ドイツ医学に学びつつ、医療体制を近代化しようとしているところだった。ドイツの医学者コッホに始まる細菌学などが最先端にして主流だったのだ。ところが「脚気」というのはヨーロッパにはない病気だった。当時の陸海軍は外国人教師を雇って軍医の養成や病院での治療指導に当たらせていたが、彼らも欧米諸国には見られない病気に、まったく知識がなかった。つまり、この病気に関しては、日本人みずからが、病気の原因を探り、治療と予防の方法を確立しなければならなかったのだ。

一方、江戸時代より漢方医たちは米食を避け、麦と小豆が脚気に効く、という知識は持っていたらしい。ところがなぜ米食が悪く、小豆や麦がいいのか、漢方医にも説明はできなかった。それに対し、西洋医学を修めた人びとは、〈理論こそ西洋医学のすぐれていることの証〉と考えていたために、理由もなく米食を禁じて小豆と麦に切り替えるわけにはいかなかったようだ。

森林太郎が帝大医学部を卒業したのはちょうどそんな時期だったのである。

さて、大学を卒業した林太郎は、ドイツに留学する。「軍隊衛生学、ことに兵食の事について専ら調査するために留学せしめられた」と、林太郎の上司であり軍医監であった石黒忠のり(直の下に心)は回想している。

当時、海軍では高木兼寛(かねひろ)が兵食改善による脚気予防策を主張していた。
高木は〈脚気の原因を探るためには、脚気の発生状況と衣食住との関係を調べてみる必要がある〉との観点から、調査を進めていった。海軍ではどの階層の人間が脚気になりやすいのか。囚人がもっとも多く、水兵がそれに次いで多い、下士官になると比較的少なくなり、将校になるといない。これは食料に起因するのではないか、と考えたのである。

当時の海軍は、陸軍とは異なって、食料は現物支給ではなく一日十八銭を支給していた。もちろん各自がばらばらに食料を買い込んでいたわけではないが、一日十八銭の食費をできるだけ節約して、余った分を水兵に還元するということが行われていた。一方で、将校たちは、自腹を切って一日十八銭以上の食事を採っていた。その結果、将校と水兵のあいだでは食事はまるでちがっていたのだ。

(この話は明日もつづく)


卑怯ではない大人

2008-12-09 22:33:03 | weblog
「卑怯」の話を続ける。
昨日、その話を思い出したのは、たまたま目の前を歩いていた学校帰りの小学生が、口々に「わ~、それ、卑怯!(アクセントは「き」)」「卑怯!」と言い合っていたからだ。

そういえば「卑怯」という言葉をしばらく使わないなあと思っているうちに、そんなことを思い出したのである。

ところで「卑怯」という言葉が頻発する小説というと、『坊ちゃん』だろう。
坊ちゃんは、兄の将棋の指し方を「卑怯」と言い、松山の中学生を「卑怯」と言い、赤シャツを「卑怯」と言う。自分のことは「おれは卑怯な人間ではない。」と言っているが、確かに坊ちゃんの行動は卑怯とは縁がない。『坊ちゃん』という作品の魅力は、「卑怯」の対極にいる坊ちゃんの、正義感の発露の小気味よさにほかならない。

ところが考えてみると、坊ちゃんが正義感を思う存分発揮できたのは、中学に辞表を出して辞めたからだ。坊ちゃんと山嵐のふたりがいなくなれば、赤シャツも野だいこも、学校でも地域でも、いよいよ好きなことができるだろう。坊ちゃんにとって、後々中学や松山がどうなろうと、まったくそんなことは関係ないのだ。正義を求めること、言いかえると、学校や地域を改善していくことなど坊ちゃんにとっては関心の外で、彼にとって関心があるのは、ひとえに自分の正義感の発露でしかない。

うらなりの恋人だった町の旧家の娘マドンナに横恋慕した赤シャツが、邪魔なうらなりを九州に追いやる。それに抗議した山嵐も、策略を弄して学校を辞めさせようとする。
赤シャツと野だいこの「罪状」は、言ってみれば学校の恣意的な運営ということだろうか。
だが、坊ちゃんは会ったときから赤シャツに腹を立てているのだ。坊ちゃんの発想は、何かがあって卑怯だと思った、というのではなく、卑怯なやつだと思ったら、やっぱり悪いことをしていた、という流れなのである。

こう考えていくと、坊ちゃんの正義感というのは、あまりたいしたものではないのではないか、という気がしてくる。仮に、社会や学校を改善したとしても、赤シャツや野だいこが「善良な人間」になることはないだろう。おそらく坊ちゃんの目から見れば、卑怯な人間であり続けるだろう。それでも、たとえ個々の人間が「善く」なることはないにしても、改革や改善は可能なはずだ。それにはずいぶん時間がかかるだろうが。

つまり、坊ちゃんの行動は、自分の所属する組織に何ら責任を持たない、せいぜい大学を出て間もない人間にしか許されそうにない行動なのである(わたしたちが小気味よさを感じるのも、責任のないところからくるところが大きいのだろう)。

「卑怯」という批判は、やはりコドモ限定のものなのかもしれない。

卑怯な子供

2008-12-08 22:29:20 | weblog
幼稚園の年少組の、おそらく六月頃、わたしが四歳になる前の出来事である。

教室に小さな聖母像があった。確かに飾ってはあったのだが、園児たちはぬいぐるみや布製の人形などと一緒に、ままごと遊びにも参加させていたような気がする。白い石膏像だったが、子供たちの手垢にまみれ、つかみやすいくぼんだあたりは黒ずんでいた。

わたしはつねづね、このマリア様に色がついていたら、もっときれいなのに、と思っていたような気がする。だからある日、サインペンでマリア像に色をぬったのだ。確か、髪の毛を黄色で塗り、服をピンクで塗ったような記憶がある。

ところが翌日先生が「マリア様に落書きをしたのは誰ですか」と聞いたのだ。その言い方が不服だったのか、そんなに悪いことをしたとは思わなかったのか、それとも怒られたら大変、と思ったのか、いまとなってはよくわからない。ともかくわたしはそのことを黙っていた。すると、どうしてそんなことになってしまったのか、「ひろ子ちゃん」という子がやった、ということになったのだ。みんな坐っているなか、「ひろ子ちゃん」ひとりが立って、うつむいていた情景が記憶にある。その子がひどく怒られたかどうかわたしには記憶はないのだけれど、わたしは困ったことになったなあ、と思いながら、黙っていた。そこから先のことは何も覚えていないのだが、このときのことはもうちょっと大きくなってから繰りかえし思い出し、思い出すたびに「自分は卑怯なんじゃないか」という気がしてならなかった。どうして自分がやった、と言わなかったのだろう。自分の罪を人にかぶせるようなことをしてしまったのだろう。そんなに小さな頃からそんなふうに卑怯なことをするようなわたしという人間は、本質的に卑怯なんじゃないだろうか、と思ったものだった(まあそんなことを考えたがるような年代だったのだ)。

小学校五年で転校して、新しい学校に通うようになって、一学期が終わりかけたころだった。友だちになろう、とわたしを誘ってくれて、いつも一緒に遊んだりしている「綾子ちゃん」という子がいた。その子はクラスのある女の子がきらいで、いつもいつも悪口を言う。あの子はあんなことをした、こんなことをした、あんな子、いなくなればいいのに、と言うのだった。

匿名の意地悪な手紙を出そう、と最初に言い出したのは、おそらく「綾子ちゃん」の方だったのだろうと思う。だが、文章を書いたのはわたしで、書き出すとその手紙に夢中になったのだ。どんなことを書いたか、まったく記憶にないのだが、悪口の手紙を書くというのはなんだか無性に楽しくて、わたしは十一歳のボキャブラリを駆使して、おそらく創造性豊かな(笑)匿名の手紙を書いた。

ところが、その手紙は即座に先生の知るところとなり、わたしと「綾子ちゃん」は先生に呼ばれた。わたしが書きました、と呼ばれると同時に認め、謝った。書いているときの楽しい気持ちは消え失せ、バカなことをした、という恥ずかしさしかなかったのだ。

ところが、「綾子ちゃん」の方は、わたしは知りません、関係ありません、この人がひとりでやったことです、と言ったのである。わたしとしては、手紙を宛てた子が、別に好きでもキライでもなかった。ほとんどつきあいもなく、よく知らなかったのだ。わたしを「親友」と呼んでくれる「綾子ちゃん」の機嫌をとるために書いたのに。

そのとき、愕然とした、と言ったら大げさになりすぎるが、やはり気持ちの一部はがっくりきた。わたしが「親友」と思っていた子は、このぐらいの子だったのか。
ともかく、このとき、一緒に幼稚園のときのことを思い出したのだ。
幼稚園のとき、自分の罪を「ひろ子ちゃん」にかぶせたわたしは、卑怯だった。だから、今回「綾子ちゃん」の行為をわたしが卑怯と呼ぶんではいけないのだろう。

だれもがもしかしたらちょっとずつ卑怯で、運が良かったら卑怯でなくてすむのかも、そうして運が悪かったら卑怯になってしまうのかもしれない。だとしたら、わたしも根っから卑怯な子供でもないのかもしれない。

そのとき、わたしはちょっと安心した。

そうしてわたしは決心したのだ。どうせ何かをしたことで責任を取らなければならなくなるのだとしたら、自分がほんとうにやりたいことだけやろう。やりたくもないことをやって、責任を取らされるほどバカバカしいものはない。
この決心は、いまでもわたしの行動の指針のひとつではあるのだが、十一歳のときの決心が未だに生きている、ということは、わたしの精神年齢は、ほとんど成長しなかった、とういうことなのだろうか。

なんだかやっぱり気ぜわしい…

2008-12-07 22:25:51 | weblog
更新情報の最後にもちょっと書いたのだが、あれやこれややらなければならないことが立て込んでくると、どうしても気ぜわしくなってしまう。

たまに「忙しいんでしょ」みたいに言われることもあるが、いったい「忙しい」と言えるのがどのくらいの状態を指すのか、わたしにはよくわからない。

わたしは基本的に淡々とした生活を送っている。
夜は十一時過ぎには寝ることにしているし、ご飯は三食食べる。忙しくて食事をする暇もない、とか、睡眠時間が三時間しかなかった、徹夜した、というのとも無縁だ。そこまで煮詰まるほど、忙しくないということなのかもしれないが、そんなふうな状態になって体調を崩してしまうのがイヤなのかもしれない。

ああ、忙しい、と言いたくなったら、ひとつ深呼吸をしよう。
明日できることは、明日やろう。


ということで、今日は更新情報を書きました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html