陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

それは損か得か その2.(※補筆)

2008-12-03 22:35:06 | weblog
ところで、そもそもわたしたちはどうして人と関わろうとするのだろうか。

まず、お腹がすいて何かを食べようと思ったら食べ物を買いに行かなければならない。買いに行こうと思えば、お金が必要だ。そのためには働かなければならない。住むところ、着るもの、誰かに扶養されている人であっても、学ぶため、遊ぶため、つまり、自分の欲求を満たそうと思えば、外へ出て、人と関わるしかないのである。

店へ行く。サケの切り身を買って、300円払う。店の人は300円受け取って、ありがとうございました、と言う。ここでは片方が自分の欲求を満たすためにお金を払い、もう一方はその欲求を満たしてあげたことに対する報酬を得る。ここで両者は同じ欲求を満たしあっている。

では、こんな場合はどうだろう。
駅までの道がわからない。向こうから歩いてくる人に「駅まではどう行くんですか」と聞く。このとき、道を聞く人は、情報を得るために、相手を「知っている人」という権威ある立場に置く。聞かれた人は、情報を与える代わりに、優越した地位を承認してもらえる。
このとき、双方の欲求の質は異なっている。

それでも、この「駅までの道を聞く」というやりとりで、ふたりがともに満足できれば、おそらくこの行動は、つぎも繰りかえされるだろう。

ところが、もしかしたら教えられた側は、ちゃんと行き着けないかもしれないし、相手の横柄な態度があとになって気に障ってくるかもしれない。

教えた側は相手がお礼ひとつ言ってくれなかったりすれば、それだけで気分が悪くなるし、あるいは相手がちゃんと行けたかどうか気になることもあるかもしれない。あとで、もっとわかりやすい道があった、悪いことをした、と後悔するかもしれない。

駅までの道を聞く、というだけの単純なことであっても、双方ともに欲求を満たしあえるかどうかはわからない。となると、片方は、かならず地図を持って歩くことにして、もう二度と人には聞くまいと思うようになるかもしれないし、他方も、人に聞かれても「さあ」と知らないふりをするようになるかもしれない。

現実のわたしたちの多くの関わりは、道を聞くよりもさらにさまざまな欲求がからみあっている。その欲求のなかには、そのときどきで変わっていき、自分でもはっきりと意識化されないものも多いだろう。
さらに、これからもその関係が繰りかえされることを望んで、自分の欲求を犠牲にして、相手の満足度をあげようとするような場合もあるだろう。

つまり、わたしたちが誰かと関わろうとするとき、自分の欲求、相手の欲求、自分の満足、相手の満足、これから繰りかえされるか、などなど、おっそろしく複雑ないくつもの要因が、流動的にからまりあっているのだ。

こういうことをいちいち考えるのが面倒だ。どうせ人と関わらなければならないのなら、もっと単純な、それこそ店に行ってサケの切り身を買うときのような単純化をしてしまいたい。そう考えるときに、「損か得か」を持ち出すのである。

そう考えていくと「この関わりは損か得か」という問いを立てるわたしたちは、ほんとうに「得をすること」を求めているのだろうか。むしろ、満足できない結果をもたらしうると予測される関わりを避けようとして、この問いを立てているのではあるまいか。

恋愛相談、というか、彼氏彼女と別れようかどうしようかと考えている人に対するありがちなアドバイスに、相手の良いところと悪いところを書き出してみるように、というのがあるが、これも言ってみれば損得を一覧表にしろ、ということだ。そういうことが出てくるのは、その恋愛関係が不調になったとき、つまりはその人が、複雑な相手との関係をもはや頭の中で支えきれず、単純化してしまいたい、という気分になったときなのである。

ここから言えること。
わたしたちが損か得かを考えるのは、必ずしも得をすることを求めているのではなく、誰かと関わることを回避する、その理由を求めているときではないのだろうか。

(さらに続くのだ)