陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

えこひいきの話(かなり大幅に補筆)

2008-12-25 23:19:48 | weblog
先日、兄弟姉妹というのはなかなか大変なものだなあと思う話を聞いた。

わたしにその話を教えてくれたのは、ふたり姉妹の妹にあたる人だったのだが、その人のもうすぐ二歳になる娘に、彼女の実家からクリスマスプレゼントが届いたのだという。それが、彼女のお姉さんの子供ふたりに送ったものと「全然ちがう」のだそうだ。姉のところには、ふたりそれぞれに、いまはやりの、子供たちの喜びそうなものをみつくろってくれたのに、自分のところには、それより額もぐっと下回る、ついでに調達したとしか思えないようなものだったとか。

小学校の、それも高学年になる子供たちのおもちゃと、まだ一歳の子供のおもちゃでは、そもそも比較すること自体、無理があるような気がしたのだが、自分が小さな頃からいつもそうだった、姉ばかりかわいがられていた、と、これまでのあれやこれやを、いくぶん感情的になったその人が縷々訴えているのに耳を傾けるうち、子供を育てるというのは、自分自身がもう一度、子供時代を生き直すという側面があるのだなあ、と思ったのだった。

子供というのは「えこひいき」にことのほか敏感だ。母親がケーキを切り分けるときは、どれが一番大きいか、目を光らせる。たとえケーキがそれほど好きなわけではなくても、ケーキの大きさの差は、母親が子供たちをどのように見ているかの反映なのである。

学校だって同じこと。小学校時代から誰が「先生のお気に入り」かはたちまちみんなの知るところとなったし、「あの先生、えこひいきするよね」という言葉は、先生に向けられる最大の倫理的批判だった。中学時代、先生になりたい、という子に向かって、「A子は人の好き嫌いが激しいでしょ、先生に向かないと思う」と意見する子もいた。

だが、自分が公平さを求められる側にまわってみると、「公平」というのはそれほど単純なことではないことがわかる。ちょうどおでんを煮込むときのようなものだ。それぞれの具材によって、下ごしらえも、入れる順序も、煮込む時間もまるでちがう。「公平」を期してコンニャクと牛スジと大根とジャガイモと昆布とはんぺんを同じ状態で同じ時間煮込んでしまえば大変なことになるだろう。

さらに言えば、料理人であるわたしの問題もある。わたし自身にだって好みはあるし(わたしはおでんにニンジンを入れるのは好まない。はんぺんとちくわぶも嫌いだ)、不調なときだってある。しかも現実の人間は、おでんの具材と比較にならないほど複雑で、しかも一度きりではないのだ。全員に「公平」であろうとするのは、至難の業、というか、そもそも不可能なことなのである。

親や先生が「えこひいきをした」と憤る子供たちは、親や先生たちが自分たちと同じように、好きと嫌いがあり、好調と不調があり、うまくできることとできないことがあり、しょっちゅう間違え、失敗する人間であるということを知らない、というか、それに気がつくまいとする。そういうオトナは「公平で正しい行動」を取るべきで、それを逸脱することが許せない。不正を目の当たりにすれば、持てる限りの正義感を総動員して、批判の声を上げる。

だが、実際のところ「公平で正しい行動」というのはどこにあるのだろう。

もちろん、同じ情況に過去遭遇していて、以前の経験が適用できる場合はあるかもしれない。本やマニュアルによる知識や、自分が教えてもらったことで対応できる場合もあるだろう。だが、そんな情況は限られているし、いくら似ていたとしても、時間と相手がちがえば、情況はすでに同じではない。どんなときでも遭遇するのは「初めて」だし、初めてのことは誰だって手探りなのである。いろんなことはやりながらわかっていくしかないのだ。間違えるのはあたりまえだし、第一、間違うことが最悪のことでもない。

親に対する「恨みつらみ」が忘れられない人がいる。わたし自身がずっとそうだったから、その気持ちはすごくよくわかるし、そんなふうに思ったこともないような、安定した幼少期を過ごした人がうらやましい。

家を出てしばらくは(というか、家に縛り付けられていたのと、ほぼ同じくらいの年数のあいだは)ずっと、どうかすると親に対する批判が頭をもたげてきて、あのときはああいうことをすべきではなかった、とか、自分だったらそうはしない、自分はそんな大人にはならない、などと思っていたものだ。

だが、自分自身が失敗を繰りかえし、恥ずかしい思いをしたり、落ち込んだりしたあげく、この失敗が最後ではないのだ、これからだっていやになるほど失敗を繰りかえすのだ、という、情けない、脱力するしかないような事実を徐々に理解するにつれ、親に対する気持ちも少しずつ変わってきたような気がする。

もちろん過去のあれやこれやの記憶がよみがえってくることもある。だが、たとえ過去、そういうことがあったとしても、それをいま思い出して、改めて自分を傷つけ直しているのは、もはや親ではない。思い返している自分自身だ。そうなると、悪いのは一体誰なのだろう? いま、自分に痛みを与えているのは、自分自身ではないのか。

親であれ、先生であれ、どこかの「エライ人」であれ、誰かの行動を取り上げてそれを批判する、というのは、自分を子供の位置に置こうとすることなのかもしれない。自分は大切に扱われ、保護されるべき子供なのだ、と。自分の「取り分」が少ないことに腹を立て、不公平だと正義感に満ちあふれて告発している子供。

「えこひいき」という言葉を使うのは子供だけだが、「不公平」というと適用範囲は広くなる。さらに「不正」となると「社会的正義」の後ろ盾も加わってきそうだ。
だが、それを声高に叫ぶことの根っこにある感情は、結局は同じものであるように思う。


わたしに「クリスマスプレゼントの差別」の話をしてくれた人も、どこかで自分の怒りの理不尽さに気がついていて、それで余計に感情的になっているような気配もあった。すでにそこから出てきたはずの過去に、ふたたび足を取られたような気持ちだったのかもしれない。

坂口安吾は、太宰の訃報にふれて、「不良少年とキリスト」という一文を書いた。そのなかで、この言葉がのちに有名になる。
親がなくとも、子が育つ。ウソです。
 親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てゝ、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。

親なんて、そのぐらいのものだ。そのぐらいのものだからこそ、大昔から人間はいなくならずに続いてきた、とも言える。所詮、自分の親なのだ。そうして、そんな自分が親になるのだ。そのことを彼女も受け入れることができたら、もしかしたら見方も変わってくるのかもしれない、と思う。

けれど、安吾の文章でもっと大切なのは、それにつづく箇所だと思う。
 時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
 大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
 原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。

「限度」という発想がないから、子供は親が全能だと思い、だからこそ不公平が許せない。先生は教室で全能だから、「えこひいき」が許せない。
大人になる、というのは、この「限度の発見」なのかもしれない。
 私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。

こういうのを読むと、つくづくオトナってカッコイイ、と思う。
こんなオトナに、ワタシハナリタイ。