陰陽師的日常

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軍医森林太郎と脚気の話7.

2008-12-21 22:14:05 | weblog
7.陸軍軍医総監として

板倉聖宣『模倣の時代(下)』には1943年に発表された山田弘倫の『軍医森鴎外』からのこんな一節を引いている。陸軍軍医総監、医務局長に就任した森林太郎のところへ、衛生課長大西亀次郎がやってきて、陸軍の兵食を麦と米の混食との規定を設けてほしい、と訴える。それに対して林太郎はこんなことを言った、というのである。
「ハア、君も麦飯迷信者の一人か。これは学問上同意ができかねる。僕が医務局に入ったとき、〈君が忌む局長になったからといって、脚気予防に麦飯が必要だ、などという俗論にマサカ、化せられはしまいね〉と、青山君までがそう云ったよ。僕もまだそこまで俗化してはいないよ」

この「青山君」というのは、東京帝大医科大学長の青山胤通のことである。当時、すでに反麦飯派は圧倒的に少数になっていたが、青山胤通や森林太郎は、米に比べてあきらかに栄養価の劣る麦飯が、なぜ効くか、理論的裏付けがないために、決して認められなかったのである。

医務局長森林太郎は、厳しい批判のなかで陸軍臨時脚気病調査会を発足させることになる。会長としての林太郎の最初の仕事は、来日していた細菌学の生みの親でもあるロベルト・コッホに脚気研究に対する意見を聞くことだった。そうしてコッホは「脚気病については、わずかな経験しかもっていない」と断ってから、脚気死亡者の病体解剖を二、三実行したが、そのなかにいつも連続球菌を見た、おそらくそれが脚気病菌で伝染病だと確信している」という待望の返答をもらったのだった。

第二回の調査会で、オランダ領インドのバタビアに研究者を派遣することに決定した。オランダ人軍医による〈脚気菌の発見〉や、エイクマンのニワトリの脚気の発見と、日本以外での脚気研究の成果を学ぶためには、オランダ領インドにおける研究がもっとも進んでいたからである。

当初派遣された三人の委員たちは、森林太郎の影響を強く受けていた。だが、そのうちのひとり、軍医の都築甚之助だけは、視察以前の研究方針を改めて、動物実験を行って、脚気の部分的栄養障害説を提唱するようになる。そうして日本で最初に米糠エキスによる脚気治療を行うようになる。そのためだったのだろうか、都築は調査会の委員を免職になり、軍医も追われるのである。以降、彼は民間医として研究を続けることになる。

ほかに脚気の研究としてめざましい成果をあげたひとりに、志賀潔がいる。彼は北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所の技師だった。東大の医科大学を卒業するとすぐに伝染病研究所に入り、まもなく赤痢菌の発見した志賀は、脚気研究に乗り出して、「脚気は伝染病ではない」と断言し、日本で初めて「脚気は一種の〈部分的栄養障害〉であることを明らかにした。

さらに民間医の立場から脚気の研究を始め、〈部分的栄養障害説〉と統計的な研究を結びつけて全面的に展開した遠山椿吉(しゅんきち)、東京帝大でも農科大学の教授で、農芸化学の方面からビタミンBを発見した鈴木梅太郎、脚気研究はこの四人に代表される人びとによって、新しい時代が切り開かれていくことになる。

この新しい脚気研究の流れに対して、強力な反対者としてあったのが、青山胤通や森林太郎だったのだ。

結局森林太郎は、脚気問題に関しては、一切の成果をあげることなく大正五年陸軍省医務局長を引退することになる。医務局長を辞めたあとも臨時脚気病調査会には臨時委員として残っていたが、大正十一年、六十一歳でその生涯を終える。そうしてこの調査会も、脚気のビタミンB欠乏症説を最後まで認めることなく、大正十三年に解散したのである。

(明日はおまけ)