陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

それは損か得か  その3.

2008-12-04 22:42:00 | weblog
その3.

昨日見たことを簡単におさらいしておく(ちょっと書き換えたので)。

わたしたちは自分のさまざまな欲求を満たそうとして、さまざまな人と関わっていく。このときの欲求というのは、多種多様なもので、もちろん「得をする」ということもあるが、かならずしもそれだけではない。相手との関係の継続を願って、自分の満足を棚上げし、相手の欲求を満たそうと考えるようなときは、「損得」で考えると「損」をすることにもなるのだが、関係が継続されればその人にとっては満足なのである(たとえば「もてない」君が「もて子さん」とデートをするために「みつぐ」君になるように)。

ところが「この関係は損か得か」と立ち止まって考えるとき、その人は実際に「得をしてやろう」と考えているというより、その関係を持ちこたえることがしんどくなって、欲求を「損得」に一元化し、数値化・空間化して目に見えるかたちで測ろうとする。そうやって、その関係を回避しようとしているのではあるまいか。

最初にわたしがこの話を書くきっかけとなる話をしていた人が「なんでも損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか」といったのは、「この時代に、子供を持とうとは思わない」という話の脈絡だった。子供を持つか持たないか、損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか、というか、もう少し正確に言うと、地球温暖化などの環境問題や、資源の枯渇、政治状況の混乱、雇用の不安定といったことを考えると、子供を持つことが、自分にとって、及び、これから生まれてくる子供にとって得とは考えられない、ということなのである。

だが、昨日付けのログでも書いたように、仮に「わたしたちが損か得かを考えるのは、得をすることを求めているのではなく、誰かと関わることを回避する、その理由を求めているとき」であると仮定するなら、ここで「損得勘定」で関わることを回避しようとしている対象は、いまはまだ存在しない「子供」である。

昔は子供というのは持つか持たないか、考えるまでもなかった。ある程度の歳になれば職に就き、一家を構え、子供を持つということは、だれもがあたりまえのことで、立ち止まって考えるようなことではなかったのだ。

ところが「ライフスタイルの多様化」ということで、「子供を持つ」ことは、いつの間にか、個人の選択にゆだねられることになった。

だが、果たして選択ということは、ほんとうに可能なのだろうか。選択というのは実は単なる「損得勘定」で、実際のところ「損得勘定」といいながら、関わることによって生じる責任を回避しようとしているだけではないか、という気がしてならないのだ。

それは損か得か その2.(※補筆)

2008-12-03 22:35:06 | weblog
ところで、そもそもわたしたちはどうして人と関わろうとするのだろうか。

まず、お腹がすいて何かを食べようと思ったら食べ物を買いに行かなければならない。買いに行こうと思えば、お金が必要だ。そのためには働かなければならない。住むところ、着るもの、誰かに扶養されている人であっても、学ぶため、遊ぶため、つまり、自分の欲求を満たそうと思えば、外へ出て、人と関わるしかないのである。

店へ行く。サケの切り身を買って、300円払う。店の人は300円受け取って、ありがとうございました、と言う。ここでは片方が自分の欲求を満たすためにお金を払い、もう一方はその欲求を満たしてあげたことに対する報酬を得る。ここで両者は同じ欲求を満たしあっている。

では、こんな場合はどうだろう。
駅までの道がわからない。向こうから歩いてくる人に「駅まではどう行くんですか」と聞く。このとき、道を聞く人は、情報を得るために、相手を「知っている人」という権威ある立場に置く。聞かれた人は、情報を与える代わりに、優越した地位を承認してもらえる。
このとき、双方の欲求の質は異なっている。

それでも、この「駅までの道を聞く」というやりとりで、ふたりがともに満足できれば、おそらくこの行動は、つぎも繰りかえされるだろう。

ところが、もしかしたら教えられた側は、ちゃんと行き着けないかもしれないし、相手の横柄な態度があとになって気に障ってくるかもしれない。

教えた側は相手がお礼ひとつ言ってくれなかったりすれば、それだけで気分が悪くなるし、あるいは相手がちゃんと行けたかどうか気になることもあるかもしれない。あとで、もっとわかりやすい道があった、悪いことをした、と後悔するかもしれない。

駅までの道を聞く、というだけの単純なことであっても、双方ともに欲求を満たしあえるかどうかはわからない。となると、片方は、かならず地図を持って歩くことにして、もう二度と人には聞くまいと思うようになるかもしれないし、他方も、人に聞かれても「さあ」と知らないふりをするようになるかもしれない。

現実のわたしたちの多くの関わりは、道を聞くよりもさらにさまざまな欲求がからみあっている。その欲求のなかには、そのときどきで変わっていき、自分でもはっきりと意識化されないものも多いだろう。
さらに、これからもその関係が繰りかえされることを望んで、自分の欲求を犠牲にして、相手の満足度をあげようとするような場合もあるだろう。

つまり、わたしたちが誰かと関わろうとするとき、自分の欲求、相手の欲求、自分の満足、相手の満足、これから繰りかえされるか、などなど、おっそろしく複雑ないくつもの要因が、流動的にからまりあっているのだ。

こういうことをいちいち考えるのが面倒だ。どうせ人と関わらなければならないのなら、もっと単純な、それこそ店に行ってサケの切り身を買うときのような単純化をしてしまいたい。そう考えるときに、「損か得か」を持ち出すのである。

そう考えていくと「この関わりは損か得か」という問いを立てるわたしたちは、ほんとうに「得をすること」を求めているのだろうか。むしろ、満足できない結果をもたらしうると予測される関わりを避けようとして、この問いを立てているのではあるまいか。

恋愛相談、というか、彼氏彼女と別れようかどうしようかと考えている人に対するありがちなアドバイスに、相手の良いところと悪いところを書き出してみるように、というのがあるが、これも言ってみれば損得を一覧表にしろ、ということだ。そういうことが出てくるのは、その恋愛関係が不調になったとき、つまりはその人が、複雑な相手との関係をもはや頭の中で支えきれず、単純化してしまいたい、という気分になったときなのである。

ここから言えること。
わたしたちが損か得かを考えるのは、必ずしも得をすることを求めているのではなく、誰かと関わることを回避する、その理由を求めているときではないのだろうか。

(さらに続くのだ)

それは損か得か

2008-12-02 22:39:49 | weblog
とあるところで「なんでも損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか」といっている人の話を聞いた。それに対して出された意見というのは、おおむね賛同するものばかり。なかには「それがものごとを客観的に見るという態度だ」という意見まで出てきて、やれやれと思ったのだった。

まあ意見というのはそうしたもので、「損得勘定で判断してはいけない」という人に対しては、そのとおりだ、という意見が表明されるのだろう。

ただ、わたしが不思議に思ったのは、その話をしていた人も賛同した人も、「損得勘定で判断する」のはあくまでも自分で、自分がその判断の対象になる可能性については、それこそまったく「勘定」に入れていないことである。

「損得勘定で判断することはまちがっていない」というなら、恋人から「もうあなたとはつきあうのをやめる、あなたと恋人でいるよりずっと得になるAさんと最近知り合ったから」という理由でふられても、決して文句は言えないことになる。結婚していたって油断はならない。「わたしはあなたといることに何のメリットも感じられない」といって、ある日突然奥さんから離婚を迫られるかもしれないし、女性だって「君より若い女の子と生活したいんだ。その方がぼくにとってずっと得るものが大きいから」と言われるかもしれない。学校だって成績は低空飛行、運動部で活躍できるわけでもない、そんな状態が続けば「君の存在は我が校にとって何の利益にもならない。君は退学だ」と退学処分になるかもしれないし、病院へ行ったって「社会的地位もない、国に税金をたくさん納めているわけでもない、IQが高いわけでもない、肉体的に優れているわけでもないあなたを治療するメリットはない」と言われたら、十分な治療さえ受けられなくなってしまう。

自分のあらゆる能力が数値化され、たえず誰かと比較され、自分の方が劣っていたら容赦なく切り捨てられるのだ。確かに「客観的」といえば「客観的」(その昔、マークシート方式のテストを「客観テスト」と呼んでいた時代があったが、それと同じ使い方での「客観的」である)だが、そんなことになってもみんなそれでいいと言えるのだろうか。

もちろんあなたが並はずれて優秀で、収入・財産も豊かで、美しく、誰の手も煩わせず、事故や災害にも遭わず、ついでに歳まで取らないのでいれば、あなたは誰にとっても「利益」のある人であり続けることができるから、「損得勘定」がこの社会での唯一の判断基準であってまったく問題はないだろう。だが、そうでないのなら、「損得勘定」の「損」にカウントされるケースはかならず出てくる。

「あなたはわたし(あるいは家族/我が校/我が社/我が国/……)にとって、何のメリットもない人だから」

という言い分を肯定できる人だけしか「何でも損得勘定で判断する」ことを肯定しちゃいけないと思うのだけれど、これはおかしな言い分なんだろうか。自分はそうするけれど、周囲が自分に対してそうするのは認められない、なんていうのは、あまりに子供っぽい、視野の狭い考え方ではあるまいか。

もちろんその「損得勘定」がベースになる関係というのはある。
たとえば店へ行って買い物をする場合だ。店の人と相対するわたしたちは、あくまでも客である。客であるわたしたちは、少しでも「得」になるように、店を比較したりバーゲンの期間をねらったりする。一方店の側も「得」になるように、レイアウトを工夫したり、さまざまなサービスをつけたりする。

けれども、その消費行動においてさえも、単純な「損得勘定」がすべてを決めるわけではない。ただ「安い」という理由からだけでなく、お気に入りの店というのはできてくるだろうし、そこで買い物を楽しむようになれば、仮に多少自分が「損」をすることになっても、その店が「得」になるような行動を採るかもしれない。
むしろ「損得勘定」をむきだしにするような客や店は、双方からきらわれることになってしまうだろう。たとえ消費行動のような場面でさえも「損得勘定」がたったひとつの基準ではないのだ。

現実にわたしたちが誰かと関わろうとすると、かならず「損得勘定」以外の要素が関連してくる。そうした部分を排除しようとすると、結局誰とも関わることができなくなってしまうのだ。

だとすれば、どうして「損得勘定」「メリット・デメリット」でわたしたちは判断しようとするのか。むしろ、それは人と関わるまいとして、そういう理由を持ち出しているのではあるまいか。

このことは明日ももう少し考えてみたい。

カーソン・マッカラーズ「家族の問題」最終回

2008-12-01 22:32:53 | 翻訳
最終回

 マーティンは子供たちを風呂に入れてやるのが好きだった。お湯のなかに立つ剥きだしのやわらかな裸体を見ていると、えもいわれぬほどのいつくしみがこみあげてくるのだった。エミリーは彼がえこひいきすると言ったが、それはおかしな言いぐさである。マーティンは息子のすんなりとかたちのよい男の子らしい体に石けんをぬってやりながら、これ以上はありえないほどの愛情を感じていた。とはいえ、ふたりの子供たちによせる自分の感情は、質がちがっていることは認めないわけにはいかない。娘に向けられた愛は厳粛なもので、いくばくかの切なさと、痛みにも似たいとおしさを感じる。男の子に向かっては、日々頭に浮かぶまま、おかしなあだ名で呼んでいたのだが、女の子に対しては、かならずマリアンヌと呼びかけ、その声はまるで愛撫するかのように発せられるのだった。マーティンは赤ん坊のまん丸いおなかや、かわいらしい小さな外陰部のひだを軽く叩いてふき取ってやる。洗ったばかりの子供たちの顔は、ふたりともに愛されて、ぱっと花びらが開いたように輝いていた。

「ぼくね、この歯を枕の下に置いとくんだ。二十五セントもらえるから」

「どうしてだい?」

「パパ、知ってるでしょ。ジョニーだって歯で二十五セント、もらったんだ」

「だれがその二十五セントを持ってくるんだい?」マーティンはたずねた。「パパは夜中に妖精が残していくんだと思っていたんだけどな。だけど、パパの頃は10セントだった」

「幼稚園じゃそういうことになってるけどね」

「じゃ、誰が置くんだ?」

「親だよ」アンディが言った。「パパ!」

 マーティンは上掛けをマリアンヌのベッドにたくしこんだ。娘はもう眠っている。息を殺して身を寄せ、マリアンヌのおでこにキスをし、てのひらがこちらを向いている小さな手にもキスをした。頭の横に手を投げ出して、すやすやと寝入っていた。

「おやすみ、アンディ・マン」

 むにゃむにゃという声がそれに応えた。そのまま一分ほどが過ぎ、マーティンは小銭を取り出すと、25セント硬貨を一枚、枕の下にすべりこませた。常夜灯だけにして、子供部屋を出た。

 マーティンは台所をあさって遅い食事の用意をしながら、ふと、子供たちが一度も母親のことも、ふたりの理解を超えていたであろうもめごとのことも、口にしようとしなかったことを思い出した。瞬間瞬間に夢中になっているうちに――歯や風呂や25セント硬貨――移ろい、流れてゆく子供の時間のなかで、こうしたささやかなエピソードも、浅瀬の速い流れに運ばれてゆく木の葉のようなものなのかもしれなかった。そのあいだに、大人の謎など岸に打ち上げられ、忘れられていくのだろう。マーティンはそのことを神に感謝した。

 だが、自分自身の怒り、押さえつけられ、表に浮かび上がってこなかった怒りが、ふたたび押し寄せてきた。自分の若い日々は、ひとりの大酒飲みのために徐々にすり減っていき、内に確かにある男らしさまでもが次第に損なわれていく。そうして、子供たちだ。ひとたび、何が起こっているか理解できないという免疫がなくなってしまえば――もう一年かそこらが過ぎてしまえば、いったいどうなるのだろう。テーブルに肘をついたまま、彼はうまいとも思わず、ただむさぼった。ほんとうのことを隠し通すことはできない――やがて、事務所でも、町でも、彼の嫁がふしだらな女だという噂は広まっていくだろう。ふしだらな女。そうして彼も彼の子供たちも、これから先、坂道をくだるように、ゆっくりと破滅への道をたどることになるのだろう。

 マーティンはテーブルをぐいと押してたちあがると、大股で居間へ入っていった。目で広げた本の行を追ってはいたが、頭のなかでは悲惨な情景がくりひろげられていた。川で溺れる子供たち、妻が往来で醜態をさらしているところ。寝る時間になるころには、激しい怒りが胸を圧迫する重しとなって、脚を引きずるようにして階段を上った。

 部屋は暗く、半ば開いたバスルームから、一筋の明かりが漏れていた。マーティンはそっと服を脱いだ。自分でもいぶかしいことに、彼の内にほんの少しずつ、変化が生じていた。眠っている妻のやすらかな寝息が、静かに部屋に響いている。ハイヒールとその脇に無造作に脱ぎ捨てられたストッキングが、音もなく彼に呼びかけているようだった。下着は乱雑に椅子の背に放り出してある。マーティンはガードルとやわらかな絹のブラジャーを拾い上げ、しばらくそれを手に持ったままたたずんでいた。その晩、彼が妻をちゃんと見たのはそれが初めてだった。彼のまなざしが、形のいい額やくっきりと弧を描く眉に注がれる。眉はマリアンヌにうけつがれていた。かたちのいい鼻の先が、先だけちょっと反っているところもそうだった。息子には高い頬骨や、とがったおとがいの面影がある。妻は細身でありながら豊かな胸をしていて、起伏に富む体つきをしていた。妻の穏やかな寝顔を見つめているうちに、長いあいだの怒りの名残りも消え失せた。批判がましい思いも、欠点をあげつらうような気分もすべて、いまの彼ははるか遠くにいた。マーティンはバスルームの明かりを消して、窓を上げた。エミリーを起こさないように気をつけながら、静かにベッドにもぐりこむ。月の光で最後にじっと妻を見つめた。彼の手は隣にある肉体を求め、このうえなく複雑な愛のために、悲哀と欲望とが同じものとなった。



The End




(※後日手を入れてサイトにアップします)