陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

軍医森林太郎と脚気の話3.

2008-12-16 22:36:35 | weblog
(※いま体調を崩していて、多忙と不調が重なって、なかなかこちらまで手が回らないのですが、無理をしないようにぼちぼちやっていきます)

その3.脚気菌か麦飯か

森林太郎と北里柴三郎は、ともに東大医学部予科の前身、東京医学校で学んでいる。北里は林太郎より十歳年長だったが、明治七年に年齢を二歳上に偽って十二歳で入学した林太郎(当時の入学資格は十四歳以上、十九歳以下だった)に対して、北里の場合は明治八年に生年を四年偽って、二十三歳で入学した。明治十四年、二十歳で林太郎が卒業したのに対し、北里は明治十六年に卒業することになった。卒業後、林太郎は陸軍に入り、陸軍軍医としての道を歩んでいくことになるが、北里は内務省衛生局に入ることになる。

ところが内務省で事務的な仕事に従事しているうちに、東大医学部での先輩緒方正規がドイツ留学から帰国、衛生局の東京試験所で細菌学の研究をすることになり、北里はその助手をつとめるようになる。

やがて北里にドイツ留学の機会が訪れる。北里はコッホについて勉強することを希望していたのだが、緒方正規は北里のために紹介状を書いてやった。

そのため、希望通りにコッホ研究所で研究者として働くうちに、北里はめきめきと頭角をあらわすようになる。そうしてオランダ領バタビアでオランダ人学者によって発見された「脚気菌」なるものが、細菌学の厳密な手続きを経たものでないと批判する論文を発表しつづいて日本でも師であった緒方が発見したとする「脚気菌」についても同様の批判を日本の雑誌に発表したのである。この行為はかつては師であった緒方に「弓を引いた」と、日本では問題になるのだが、一方、北里はドイツで破傷風菌の純粋培養に成功し、世界的な細菌学者となっていく。

さて、問題の「脚気」、日本ではまた別の方面からひとつの解決策が生まれていた。この立て役者は、林太郎と同じ陸軍でも、大阪鎮台の軍医部長堀内利国である。
堀内はあるとき部下から監獄で米飯を麦飯に変えたところ、脚気が減った、という話を聞く。そこで全国の監獄に情況を問い合わせたところ、現実にその現象が見られたというのだ。

奇妙なことに、監獄では白米ばかりが出ていた時期があったのだ。明治六年にアメリカの宣教師でもあった医師が囚人の診察に当たり、日本の監獄の待遇の非人道的なことを大久保利通に忠言した。そこで政府は全国の監獄の食料を白米百パーセントに切り替えたのである。ところが罪もない大多数の農民が白米ではない米に麦などを混ぜて食べているというのに、監獄の食事が白米百パーセントというのも奇妙な話である。そこで明治十四年、監獄の食料が見直されることになり、米麦混合になった。そうしてそれが監獄における脚気の減少につながったのだ。

堀内は、監獄において成果をあげた米麦の混食を、大阪の部隊で試験的に実施する。そうして、脚気の発生しやすい夏に、大阪では脚気の発生を見なかったのである。

海軍と大阪鎮台の麦飯の効果は、明治十八年頃には、徐々に知られるようになった。このままでいけば、日本の脚気は撲滅されたかもしれない。ところがそうはいかなかったのである。

(まだ続く)