陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サマセット・モーム「幸せな男」(下)

2008-12-28 23:35:57 | 翻訳
その3.

 それからずいぶんの歳月、少なくとも十五年が過ぎて、偶然セヴィリアに行く機会があったのだが、体調をいささか崩してしまったので、ホテルのポーターに、この街にイギリス人の医者はいないかね、と聞いてみた。ポーターは、おります、と言って、その住所を教えてくれた。タクシーを呼んで医者の家へ向かうと、小柄な太った男が出てきた。わたしに目を留め、何かとまどったような様子を見せた。

「わたしのところにいらしたんですね?」と彼は言った。「わたしがイギリス人の医者ですが」

 わたしが用件を話すと、医者は、入るように言った。その家はどこにでもあるようなスペインの家で、中庭があり、そこに続く診察室には、カルテや本、医療器具やがらくたなどが散乱していた。その光景は、潔癖性の患者ならぎょっとするようなものだろう。診察が終わって、わたしは診察料を聞いた。医者はかぶりをふって笑みを浮かべた。

「診察料は結構です」

「それはまたどうして?」

「わたしのことをお忘れですか? ほら、あなたがわたしにおっしゃってくださったから、わたしはここにいるんですよ。わたしの人生がすっかり変わったのも、あなたのおかげなんですから。わたしはスティーヴンズです」

 何を言っているのか少しもわからない。そこで彼はわたしに思い出させようと、わたしたちが何を話したかもういちど聞かせてくれたので、徐々に、闇の中から薄明が見えてくるように、あのときの出来事がよみがえってきたのだった。

「あなたにまたお目にかかることができるだろうかと思っていました」彼は言った。「あなたがおっしゃってくださったことのお礼を言う機会があったらいいと思ってたんです」

「ではうまくいってるんですね」

 わたしは彼をしげしげと見た。でっぷりと太ってはげ上がっていたが、眼はいきいきと輝き、肉付きのよい赤ら顔には、上機嫌この上ない表情が浮かんでいた。服はすりきれ、みすぼらしいもので、あきらかにスペインで仕立てられたもの。かぶっているのはスペイン人のかぶるつばびろのソンブレロである。ビンを見ただけで良いワインならわかる、といわんばかりの顔つきでこちらを見ていた。放埒な生活を送っているようだったが、同時に、思いやりにあふれた印象でもある。盲腸の切除を依頼するとなると考えものではあるが、ワインのグラスを共に重ねるには、これほど楽しい相手もいまいと思えた。

「たしか結婚していらっしゃいましたね」わたしは言った。

「ええ。ですが家内はスペインを嫌ってカンバーウェルへ戻りました。あっちの方が性に合うんでしょう」

「それは生憎でしたな」

 彼の黒い目に、どんちゃんさわぎをしているときのような笑みの色が浮かんだ。確かにどこか若き日のシレノス(※ギリシャ神話に出てくる妖精で、ディオニュソスに葡萄酒の製法を教えた)を思わせるところがあった。

「世のなか、いたるところに埋め合わせはあるものでしてね」彼はもごもごと言った。

 その言葉がみなまで終わらないうち、スペイン人の女、青春期の若さこそ、もはや失われてはいたが、大胆そうでなまめかしい美人だった。スペイン語で彼に話しかけているところは、どうみても彼女がこの家の女主人であることを示していた。

 わたしを見送りに、表のドアに立った彼は言った。
「前にお会いしたときに、あなたはここに来たら、食うだけがやっとしか稼げないかもしれないが、なかなか愉快な生活が送れるとおっしゃった。ほんとうにそのとおりでした、と言いたかったんです。これまでずっと貧乏だったし、おそらくこれからもそうでしょうが、楽しくやってます。いまの暮らしなら、世界中のどんな王様の暮らしとだって、換えようとは思いませんよ」


The End


(※近日中に手を入れてサイトにアップします)