その2.
「あれはそれほどたいした本じゃありませんよ。申し訳ない話ですが」
「そうおっしゃいますが、スペインのことをよくご存じのことはまちがいありませんし、わたしはほかにそんな方を誰も知らないのです。ですから、ひょっとしたらいろんなことを教えていただけるのではないかと思ったんですよ」
「それはかまいませんが」
客はしばらく黙ったままでいた。手を延ばして帽子を取ると、心ここにあらずの体で、もう一方の手で撫でさすっている。そうしていると心が落ち着くのかもしれなかった。
「見ず知らずの人間がこんな話をして、うさんくさく思われなければいいのですが」と言うと、申し訳なさそうに笑った。「いや、身の上話などするつもりはないのです」
人がこんなことを言うときは、かならず身の上話をするものなのである。だが、そんなことはかまわなかった。わたしは身の上話がきらいではない、というか、好きな方なのだ。
「わたしはふたりの年寄りの伯母に育てられたんです。どこにも行ったことがない。これということをやったこともない。結婚は六年前にしました。子供はいません。カンバーウェル診療所で保健所長を務めています。だが、もうこれ以上辛抱できそうもない」
彼の使った短い、痛烈な言葉には、何かしらはっとさせるようなものがあった。ひどく説得力をもって響いたのである。わたしはそれまで相手をざっと眺めただけだったのだが、あらためて好奇の目を向けた。ずんぐりした体つきの小柄な男、歳はおそらく三十かそこら、丸い赤ら顔には、小さな濃い色の目がきらきらと輝いている。黒い髪はてっぺんの尖った頭に張りつくように、短く刈り込んでいた。ひざが飛び出したズボンをはき、ポケットは不格好に膨れ、紺色の背広はくたびれてよれよれだ。
「診療所の所長の仕事がどんなものか、あなたもご存じでしょう。毎日毎日が判で付いたように同じ。これから先、一生これを続けていかなきゃならんのです。こんな人生、一体どれほどの価値があるもんなんでしょうか」
「そうは言っても糊口の資ですからな」とわたしは答えた。
「そりゃわたしもわかってます。実入りは確かに悪くはない」
「なら、どうしてわたしのところなぞにいらっしゃったのです」
「ええ、イギリス人の医者がスペインで見込みがあるか、お考えをうかがいたいと思いまして」
「なんでまたスペインなんです?」
「わかりません。なんとなく好きなんです」
「カルメンみたいにはいかないよ」
「でもあそこには太陽があるでしょう。それにうまいワインも、色彩は豊かだし、深呼吸したくなるような空気でしょう。実を言いますとね、たまたまセヴィリアにはイギリス人の医者がいないという話を聞いたんです。わたしがやっていけると思われますか。はっきりしないもののために、安定した仕事を棒に振るのは、狂気の沙汰でしょうか」
「で、君の奥さんの考えはどうなんだい?」
「家内もその気になってるんですよ」
「だが、危ない橋ではあるよ」
「わかってます。でも、やってみろ、と言ってくださったら、そうするつもりなんです。いまいる場所でがんばれ、とおっしゃれば、続けます」
彼は例のよく光る目で、熱っぽくわたしを見つめており、彼が言っていることが嘘偽りないものであることがよくわかった。わたしはしばらく考えた。
「あなたの一生の問題だからね。こればかりは自分で決めなければ。だが、これだけは言えると思いますよ。金はいらない、どうにか生きていけるぐらい稼げれば十分だ、と思えるのなら、行ってみたらいい。おそらくなかなか愉快な生活が送れるはずです」
彼はわたしのところをあとにした。一日か二日は彼のことを気にかけていたものの、やがて忘れてしまった。この一件も、やがてわたしの記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまったのだった。
(明日最終回)
「あれはそれほどたいした本じゃありませんよ。申し訳ない話ですが」
「そうおっしゃいますが、スペインのことをよくご存じのことはまちがいありませんし、わたしはほかにそんな方を誰も知らないのです。ですから、ひょっとしたらいろんなことを教えていただけるのではないかと思ったんですよ」
「それはかまいませんが」
客はしばらく黙ったままでいた。手を延ばして帽子を取ると、心ここにあらずの体で、もう一方の手で撫でさすっている。そうしていると心が落ち着くのかもしれなかった。
「見ず知らずの人間がこんな話をして、うさんくさく思われなければいいのですが」と言うと、申し訳なさそうに笑った。「いや、身の上話などするつもりはないのです」
人がこんなことを言うときは、かならず身の上話をするものなのである。だが、そんなことはかまわなかった。わたしは身の上話がきらいではない、というか、好きな方なのだ。
「わたしはふたりの年寄りの伯母に育てられたんです。どこにも行ったことがない。これということをやったこともない。結婚は六年前にしました。子供はいません。カンバーウェル診療所で保健所長を務めています。だが、もうこれ以上辛抱できそうもない」
彼の使った短い、痛烈な言葉には、何かしらはっとさせるようなものがあった。ひどく説得力をもって響いたのである。わたしはそれまで相手をざっと眺めただけだったのだが、あらためて好奇の目を向けた。ずんぐりした体つきの小柄な男、歳はおそらく三十かそこら、丸い赤ら顔には、小さな濃い色の目がきらきらと輝いている。黒い髪はてっぺんの尖った頭に張りつくように、短く刈り込んでいた。ひざが飛び出したズボンをはき、ポケットは不格好に膨れ、紺色の背広はくたびれてよれよれだ。
「診療所の所長の仕事がどんなものか、あなたもご存じでしょう。毎日毎日が判で付いたように同じ。これから先、一生これを続けていかなきゃならんのです。こんな人生、一体どれほどの価値があるもんなんでしょうか」
「そうは言っても糊口の資ですからな」とわたしは答えた。
「そりゃわたしもわかってます。実入りは確かに悪くはない」
「なら、どうしてわたしのところなぞにいらっしゃったのです」
「ええ、イギリス人の医者がスペインで見込みがあるか、お考えをうかがいたいと思いまして」
「なんでまたスペインなんです?」
「わかりません。なんとなく好きなんです」
「カルメンみたいにはいかないよ」
「でもあそこには太陽があるでしょう。それにうまいワインも、色彩は豊かだし、深呼吸したくなるような空気でしょう。実を言いますとね、たまたまセヴィリアにはイギリス人の医者がいないという話を聞いたんです。わたしがやっていけると思われますか。はっきりしないもののために、安定した仕事を棒に振るのは、狂気の沙汰でしょうか」
「で、君の奥さんの考えはどうなんだい?」
「家内もその気になってるんですよ」
「だが、危ない橋ではあるよ」
「わかってます。でも、やってみろ、と言ってくださったら、そうするつもりなんです。いまいる場所でがんばれ、とおっしゃれば、続けます」
彼は例のよく光る目で、熱っぽくわたしを見つめており、彼が言っていることが嘘偽りないものであることがよくわかった。わたしはしばらく考えた。
「あなたの一生の問題だからね。こればかりは自分で決めなければ。だが、これだけは言えると思いますよ。金はいらない、どうにか生きていけるぐらい稼げれば十分だ、と思えるのなら、行ってみたらいい。おそらくなかなか愉快な生活が送れるはずです」
彼はわたしのところをあとにした。一日か二日は彼のことを気にかけていたものの、やがて忘れてしまった。この一件も、やがてわたしの記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまったのだった。
(明日最終回)