その3.
昨日見たことを簡単におさらいしておく(ちょっと書き換えたので)。
わたしたちは自分のさまざまな欲求を満たそうとして、さまざまな人と関わっていく。このときの欲求というのは、多種多様なもので、もちろん「得をする」ということもあるが、かならずしもそれだけではない。相手との関係の継続を願って、自分の満足を棚上げし、相手の欲求を満たそうと考えるようなときは、「損得」で考えると「損」をすることにもなるのだが、関係が継続されればその人にとっては満足なのである(たとえば「もてない」君が「もて子さん」とデートをするために「みつぐ」君になるように)。
ところが「この関係は損か得か」と立ち止まって考えるとき、その人は実際に「得をしてやろう」と考えているというより、その関係を持ちこたえることがしんどくなって、欲求を「損得」に一元化し、数値化・空間化して目に見えるかたちで測ろうとする。そうやって、その関係を回避しようとしているのではあるまいか。
最初にわたしがこの話を書くきっかけとなる話をしていた人が「なんでも損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか」といったのは、「この時代に、子供を持とうとは思わない」という話の脈絡だった。子供を持つか持たないか、損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか、というか、もう少し正確に言うと、地球温暖化などの環境問題や、資源の枯渇、政治状況の混乱、雇用の不安定といったことを考えると、子供を持つことが、自分にとって、及び、これから生まれてくる子供にとって得とは考えられない、ということなのである。
だが、昨日付けのログでも書いたように、仮に「わたしたちが損か得かを考えるのは、得をすることを求めているのではなく、誰かと関わることを回避する、その理由を求めているとき」であると仮定するなら、ここで「損得勘定」で関わることを回避しようとしている対象は、いまはまだ存在しない「子供」である。
昔は子供というのは持つか持たないか、考えるまでもなかった。ある程度の歳になれば職に就き、一家を構え、子供を持つということは、だれもがあたりまえのことで、立ち止まって考えるようなことではなかったのだ。
ところが「ライフスタイルの多様化」ということで、「子供を持つ」ことは、いつの間にか、個人の選択にゆだねられることになった。
だが、果たして選択ということは、ほんとうに可能なのだろうか。選択というのは実は単なる「損得勘定」で、実際のところ「損得勘定」といいながら、関わることによって生じる責任を回避しようとしているだけではないか、という気がしてならないのだ。
昨日見たことを簡単におさらいしておく(ちょっと書き換えたので)。
わたしたちは自分のさまざまな欲求を満たそうとして、さまざまな人と関わっていく。このときの欲求というのは、多種多様なもので、もちろん「得をする」ということもあるが、かならずしもそれだけではない。相手との関係の継続を願って、自分の満足を棚上げし、相手の欲求を満たそうと考えるようなときは、「損得」で考えると「損」をすることにもなるのだが、関係が継続されればその人にとっては満足なのである(たとえば「もてない」君が「もて子さん」とデートをするために「みつぐ」君になるように)。
ところが「この関係は損か得か」と立ち止まって考えるとき、その人は実際に「得をしてやろう」と考えているというより、その関係を持ちこたえることがしんどくなって、欲求を「損得」に一元化し、数値化・空間化して目に見えるかたちで測ろうとする。そうやって、その関係を回避しようとしているのではあるまいか。
最初にわたしがこの話を書くきっかけとなる話をしていた人が「なんでも損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか」といったのは、「この時代に、子供を持とうとは思わない」という話の脈絡だった。子供を持つか持たないか、損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか、というか、もう少し正確に言うと、地球温暖化などの環境問題や、資源の枯渇、政治状況の混乱、雇用の不安定といったことを考えると、子供を持つことが、自分にとって、及び、これから生まれてくる子供にとって得とは考えられない、ということなのである。
だが、昨日付けのログでも書いたように、仮に「わたしたちが損か得かを考えるのは、得をすることを求めているのではなく、誰かと関わることを回避する、その理由を求めているとき」であると仮定するなら、ここで「損得勘定」で関わることを回避しようとしている対象は、いまはまだ存在しない「子供」である。
昔は子供というのは持つか持たないか、考えるまでもなかった。ある程度の歳になれば職に就き、一家を構え、子供を持つということは、だれもがあたりまえのことで、立ち止まって考えるようなことではなかったのだ。
ところが「ライフスタイルの多様化」ということで、「子供を持つ」ことは、いつの間にか、個人の選択にゆだねられることになった。
だが、果たして選択ということは、ほんとうに可能なのだろうか。選択というのは実は単なる「損得勘定」で、実際のところ「損得勘定」といいながら、関わることによって生じる責任を回避しようとしているだけではないか、という気がしてならないのだ。