陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

卑怯ではない大人

2008-12-09 22:33:03 | weblog
「卑怯」の話を続ける。
昨日、その話を思い出したのは、たまたま目の前を歩いていた学校帰りの小学生が、口々に「わ~、それ、卑怯!(アクセントは「き」)」「卑怯!」と言い合っていたからだ。

そういえば「卑怯」という言葉をしばらく使わないなあと思っているうちに、そんなことを思い出したのである。

ところで「卑怯」という言葉が頻発する小説というと、『坊ちゃん』だろう。
坊ちゃんは、兄の将棋の指し方を「卑怯」と言い、松山の中学生を「卑怯」と言い、赤シャツを「卑怯」と言う。自分のことは「おれは卑怯な人間ではない。」と言っているが、確かに坊ちゃんの行動は卑怯とは縁がない。『坊ちゃん』という作品の魅力は、「卑怯」の対極にいる坊ちゃんの、正義感の発露の小気味よさにほかならない。

ところが考えてみると、坊ちゃんが正義感を思う存分発揮できたのは、中学に辞表を出して辞めたからだ。坊ちゃんと山嵐のふたりがいなくなれば、赤シャツも野だいこも、学校でも地域でも、いよいよ好きなことができるだろう。坊ちゃんにとって、後々中学や松山がどうなろうと、まったくそんなことは関係ないのだ。正義を求めること、言いかえると、学校や地域を改善していくことなど坊ちゃんにとっては関心の外で、彼にとって関心があるのは、ひとえに自分の正義感の発露でしかない。

うらなりの恋人だった町の旧家の娘マドンナに横恋慕した赤シャツが、邪魔なうらなりを九州に追いやる。それに抗議した山嵐も、策略を弄して学校を辞めさせようとする。
赤シャツと野だいこの「罪状」は、言ってみれば学校の恣意的な運営ということだろうか。
だが、坊ちゃんは会ったときから赤シャツに腹を立てているのだ。坊ちゃんの発想は、何かがあって卑怯だと思った、というのではなく、卑怯なやつだと思ったら、やっぱり悪いことをしていた、という流れなのである。

こう考えていくと、坊ちゃんの正義感というのは、あまりたいしたものではないのではないか、という気がしてくる。仮に、社会や学校を改善したとしても、赤シャツや野だいこが「善良な人間」になることはないだろう。おそらく坊ちゃんの目から見れば、卑怯な人間であり続けるだろう。それでも、たとえ個々の人間が「善く」なることはないにしても、改革や改善は可能なはずだ。それにはずいぶん時間がかかるだろうが。

つまり、坊ちゃんの行動は、自分の所属する組織に何ら責任を持たない、せいぜい大学を出て間もない人間にしか許されそうにない行動なのである(わたしたちが小気味よさを感じるのも、責任のないところからくるところが大きいのだろう)。

「卑怯」という批判は、やはりコドモ限定のものなのかもしれない。