6.脚気と日露戦争と森林太郎
明治30年、陸軍の医務局長は、石黒忠のりが辞め、森林太郎と同期の小池正直が医務局長に就任する。小池正直は就任当初、森林太郎の報告を理論的裏付けとして、従来の陸軍の兵食を擁護し、西洋食を批判していた。だが、医務局に蓄積されていた資料を整理しなおすなかで、麦飯の紅葉を認めるようになっていく。そうして明治32年「脚気と食物との関係における学理は若(かくのごと)く不明なりといえども、その関係は果たして原因的関係なりや、将(はたま)た偶発的関係なりやは正確なる統計によりて概ねこれを窺(うかが)うことを得べし。もし以て原因的関係あることを知るにおいては学理の如何はしばらく措(お)き、その実効はこれを認めざるべからず」(小池正直「脚気と麦飯との関係」板倉聖宣『模倣の時代(下)』)として、以下統計をもとに麦飯による脚気減少の「原因的関係」を明らかにしていったのである。
一方、森林太郎である。林太郎は小池と東大医学部で同級生ではあったが、なにしろ十二歳で入学した林太郎だから、小池正直は八歳年長である。その年齢差を考慮すればかならずしも出世競争で林太郎が遅れをとったとも言えないだろうが、さらに陸軍軍医部長が二名、軍医監に昇任したが、その一名も同級生だった。そうして林太郎は一等軍医正のままに留まる。やがて明治32年、軍医監に任じられたものの、福岡県小倉の第十二師団の軍医部長となって、東京の地を離れることになる。この小倉派遣を「左遷」と見るかどうかは評価の分かれるところなのだが、少なくとも林太郎自身は「左遷」と受け取ったようだ。
明治34年、小倉の地で、林太郎は「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたる因する乎」と題する論文を発表した。そのなかで、小池正直と同じように、統計表を示しながら脚気が減少したことを認める。だが、そののち「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果(Post hoc ergo propter hoc)の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」と異議を申し立てるのである。
森林太郎は「蘭領インド」(現在のインドネシア)の脚気患者と日本の脚気患者数を比較して、その時期が重なり合っていることをあきらかにし、〈日本の陸軍や海軍の脚気激減は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって、兵食改善等の結果ではない〉と結論づける。
森林太郎は明治三十五年、九州小倉の第十二師団の軍医部長から、第一師団の軍医部長に転任することになり、再び東京に帰ってくる。
明治37年2月、日露戦争が始まった。戦争が始まると、陸軍医務局長の小池正直が全軍の衛生問題・兵食問題を統括することになった。ところが麦飯と脚気の〈原因的関係〉を認めたはずの小池だったが、兵食は米食となった。日露戦争後、責任を問われた陸軍医務局の田村俊次は、挽き割り麦は虫が付きやすく、輸送上困難だったため、37年4月までは一粒の麦も送らなかった、と弁明しているが、その真相はよくわからない。
その結果、日露戦争での脚気患者数は25万人、脚気による死者は27,800余名という大変な事態になった。一方、海軍はほとんど脚気患者を出すことはなかった。高木兼寛の麦飯の脚気予防効果の根拠は、当時の栄養学の知識をもってしても誤っていたのだが、麦飯が脚気に現実に有効であることはまったく別の問題だったのである。
特に海軍の側から、陸軍は厳しい批判にさらされることになる。森林太郎が小池正直の跡を継いで医務局長に就任したのはその時期だった。
(いよいよ明日最終回)
明治30年、陸軍の医務局長は、石黒忠のりが辞め、森林太郎と同期の小池正直が医務局長に就任する。小池正直は就任当初、森林太郎の報告を理論的裏付けとして、従来の陸軍の兵食を擁護し、西洋食を批判していた。だが、医務局に蓄積されていた資料を整理しなおすなかで、麦飯の紅葉を認めるようになっていく。そうして明治32年「脚気と食物との関係における学理は若(かくのごと)く不明なりといえども、その関係は果たして原因的関係なりや、将(はたま)た偶発的関係なりやは正確なる統計によりて概ねこれを窺(うかが)うことを得べし。もし以て原因的関係あることを知るにおいては学理の如何はしばらく措(お)き、その実効はこれを認めざるべからず」(小池正直「脚気と麦飯との関係」板倉聖宣『模倣の時代(下)』)として、以下統計をもとに麦飯による脚気減少の「原因的関係」を明らかにしていったのである。
一方、森林太郎である。林太郎は小池と東大医学部で同級生ではあったが、なにしろ十二歳で入学した林太郎だから、小池正直は八歳年長である。その年齢差を考慮すればかならずしも出世競争で林太郎が遅れをとったとも言えないだろうが、さらに陸軍軍医部長が二名、軍医監に昇任したが、その一名も同級生だった。そうして林太郎は一等軍医正のままに留まる。やがて明治32年、軍医監に任じられたものの、福岡県小倉の第十二師団の軍医部長となって、東京の地を離れることになる。この小倉派遣を「左遷」と見るかどうかは評価の分かれるところなのだが、少なくとも林太郎自身は「左遷」と受け取ったようだ。
明治34年、小倉の地で、林太郎は「脚気減少は果たして麦を以て米に代えたる因する乎」と題する論文を発表した。そのなかで、小池正直と同じように、統計表を示しながら脚気が減少したことを認める。だが、そののち「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果(Post hoc ergo propter hoc)の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」と異議を申し立てるのである。
森林太郎は「蘭領インド」(現在のインドネシア)の脚気患者と日本の脚気患者数を比較して、その時期が重なり合っていることをあきらかにし、〈日本の陸軍や海軍の脚気激減は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって、兵食改善等の結果ではない〉と結論づける。
海軍や陸軍で脚気を撃滅のために努力してきた人々を馬鹿にしたような話である。
しかし、いくら人を馬鹿にしたような話でも、それが真実である可能性があるならば、そういう話もむげに非難してはならない。それにしても、こういう話を聞いたとき、当事者の人々が、それを〈人を馬鹿にした話〉として受け止めざるを得ないのは何故だろうか。それは、
〈どこでも、脚気撲滅のために麦飯を実施したその年から脚気が激減している〉
というよく知られていた事実を無視しているからである。
全体だけを見れば、〈日本の陸軍の脚気が、たまたま麦飯の実施の時期に自然に激減する時期にあった〉というようなことを考えるのもあながち不当ではないかもしれない。しかし、陸軍における麦飯の採用は師団によってまちまちに行われたのである。その各師団ごとに見て、脚気が麦飯を実施した年から激減した事実をみな偶然の結果と解することはできない。…略…
彼は〈脚気が兵食改善によって絶滅された〉という事実をあくまで認めたくなかったのだ。その党派的な考えに囚われたために、普通の人々には気づき難い事実の発見に彼を走らせ、その反面、普通の人々にもわかりやすい論理が見えなくなってしまったのである。(板倉聖宣『模倣の時代(下)』)
森林太郎は明治三十五年、九州小倉の第十二師団の軍医部長から、第一師団の軍医部長に転任することになり、再び東京に帰ってくる。
明治37年2月、日露戦争が始まった。戦争が始まると、陸軍医務局長の小池正直が全軍の衛生問題・兵食問題を統括することになった。ところが麦飯と脚気の〈原因的関係〉を認めたはずの小池だったが、兵食は米食となった。日露戦争後、責任を問われた陸軍医務局の田村俊次は、挽き割り麦は虫が付きやすく、輸送上困難だったため、37年4月までは一粒の麦も送らなかった、と弁明しているが、その真相はよくわからない。
〈もしかすると、小池衛生長官は、森林太郎の反撃にあって、麦飯の有効性に対する自信を揺さぶられた結果、無理してまでも麦を輸送することを考えなくなっていたのではないか〉とも疑われてくる。ともかく、小池衛生長官は挽き割り麦の輸送を指示しなかったのである。
その結果、日露戦争での脚気患者数は25万人、脚気による死者は27,800余名という大変な事態になった。一方、海軍はほとんど脚気患者を出すことはなかった。高木兼寛の麦飯の脚気予防効果の根拠は、当時の栄養学の知識をもってしても誤っていたのだが、麦飯が脚気に現実に有効であることはまったく別の問題だったのである。
特に海軍の側から、陸軍は厳しい批判にさらされることになる。森林太郎が小池正直の跡を継いで医務局長に就任したのはその時期だった。
(いよいよ明日最終回)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます