ここで森林太郎と脚気問題について、板倉聖宣『模倣の時代(上・下)』(仮説社)に依拠しながら詳しくふれたのは、一般に言われるように脚気問題に関して鴎外を批判することは、果たして正当なことなのだろうか、という疑問があったからである。
鴎外の時代、人びとは単に脚気の治療法を知らなかっただけではない。ビタミンという種類の栄養素が人間に必要だったことも知らなければ、統計学的な処理もまだ確立されていなかった。
さらに考慮に入れておかなければならないのは、日本人にとって「米」というのは、「主食」という言葉にもあきらかなように、麦やマメなどのほかの穀物とは異なる地位を占めていることである。
昔にくらべれば、食料の種類もはるかに豊富になり、海外からも多くの食物が輸入される現代であっても、1993年の不作の年にあきらかなように、わたしたちはいまだに米に関しては、「日本で収穫されたもの」に対して特別な思いを抱いている。
明治時代であれば、米に対する気持ちは、いまよりもさらに強いものであったことは想像にかたくない。しかも鴎外はドイツで栄養学の勉強をしている。必須アミノ酸をすべて満たしている米が、麦などにくらべてはるかに栄養の面で「優れている」という意識があったとしても不思議はない。
たとえ原因がわからなかったとしても、麦飯を食べさせると脚気が減ったんだから、麦飯に切り替えるべきだという主張は、確かに筋が通っている。
だがこれはたとえばドクダミやゲンノショウコなどの植物の花や根のどんな成分がどうやって効くかわからなくても、実際に効果があるからドクダミを煎じて飲む、というのと同じ理屈ではないのか。いまでこそ、わたしたちはこのような有効性をも認めているが、西洋医学が入ってきた当時、まさに西洋医学の礎を日本に築こうとしていた人びとにとってはこのような民間療法を決して認めることができなかった、というのもまた理解できるのだ。重篤な病気であればあるほど、そうだったにちがいない。
鴎外の「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果(Post hoc ergo propter hoc)〉の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」という主張もまちがっていない。当時の統計がどこまで麦飯と脚気の減少の相関関係ではなく因果関係を明らかにしているのか、本を読むかぎりでわたしにはよくわからなかったのだけれど、脚気病原菌説に固執して、日露戦争時に麦を送ることを拒んだとされる鴎外や青山胤通が、当時意図的に観察可能な事実を無視して、党派的な利害に基づく行動を取ってきたとは言えないように思う。
現在進行形である事態のただなかにある人にとって、「正しい方法」というものがどこかにあるわけではない。「正しい方法」というのは一切が完結して、歴史的な評価ができるようになってはじめて明らかになるものだろう。
いまの時点から見て、「間違った」認識を持った人が、「間違った」見方に固執して、「正しい」認識を持った人びとを弾圧し、排斥した、と批判するのは、あまり意味のあることではないようにわたしには思える。自然科学の「発見」、医学の「発見」、そうしたものが累々たる失敗と間違いの上に築かれるものであることを考えると、たとえそうであったとしても「あのときこうしていれば脚気患者の多くを救えたのに」という論法で批判することはできないのではないか。
さらに、米糠の効果があきらかになっていった段階で、森林太郎が公式に自分の非を認めなかった、と批判する人もいる。だが、晩年の彼が脚気問題をどのようにとらえていたかはわからない。
この話を始めるときに、鴎外は『舞姫』の主人公に、たとえば漱石の『坊ちゃん』とは似ても似つかない人物を選んだことを書いた。太田豊太郎は、自分の意志や良心を曲げ、母親や友人、日本にいる自分を送り出してくれた人びとなど周囲の期待に沿うことを選ぶが、むしろそれは積極的に自分で選択したというよりも、むしろ避けがたくそちらに追いやられていったとも言える。同時に彼はそうした自分を決して許さない。自分のあえて言うなら「卑怯さ」を、誰よりもよく自覚している人物なのである。そうした主人公を作家生活の非常に早い段階で造型していった鴎外を、わたしはどうしても軍医森林太郎と重ね合わせて見てしまう。
人がある行動を取るとする。だが、その好意はどこまでその人の意思と言えるのだろう。わたしたちが「自分の意志」と考える、そのどこまでが、わたしたち自身の意思なのだろう。だが、いったんなされた行動には、かならず責任がついてまわる。わたしたちは自分が自由な意思決定で選択した〈かのように〉その責任を引き受けるのである。たとえその行動の結果が、自分の当初意図したものとかけ離れたものになったとしても。
失敗したの責任の取り方は、おそらく謝罪することばかりではないように思う。
作家としての鴎外は、やがて小説を否定して、史伝を書くようになる。
『渋江抽斎』のなかにこんな一節がある。
問題は、彼がやったことが現代の知識や道徳や常識に照らし合わせてどうかということではないだろう。鴎外がいったいどのような生き方を理想としていたか。そういうことを考えると、たとえば文人としての鴎外は立派だったが、軍医としての森林太郎は恥ずべき人物であった、などというようなことは言えないように思うのだ。
鴎外の時代、人びとは単に脚気の治療法を知らなかっただけではない。ビタミンという種類の栄養素が人間に必要だったことも知らなければ、統計学的な処理もまだ確立されていなかった。
さらに考慮に入れておかなければならないのは、日本人にとって「米」というのは、「主食」という言葉にもあきらかなように、麦やマメなどのほかの穀物とは異なる地位を占めていることである。
昔にくらべれば、食料の種類もはるかに豊富になり、海外からも多くの食物が輸入される現代であっても、1993年の不作の年にあきらかなように、わたしたちはいまだに米に関しては、「日本で収穫されたもの」に対して特別な思いを抱いている。
明治時代であれば、米に対する気持ちは、いまよりもさらに強いものであったことは想像にかたくない。しかも鴎外はドイツで栄養学の勉強をしている。必須アミノ酸をすべて満たしている米が、麦などにくらべてはるかに栄養の面で「優れている」という意識があったとしても不思議はない。
たとえ原因がわからなかったとしても、麦飯を食べさせると脚気が減ったんだから、麦飯に切り替えるべきだという主張は、確かに筋が通っている。
だがこれはたとえばドクダミやゲンノショウコなどの植物の花や根のどんな成分がどうやって効くかわからなくても、実際に効果があるからドクダミを煎じて飲む、というのと同じ理屈ではないのか。いまでこそ、わたしたちはこのような有効性をも認めているが、西洋医学が入ってきた当時、まさに西洋医学の礎を日本に築こうとしていた人びとにとってはこのような民間療法を決して認めることができなかった、というのもまた理解できるのだ。重篤な病気であればあるほど、そうだったにちがいない。
鴎外の「我が国多数の学者は、ここに拠りて原因上関係を二者の間に求め〈前後即因果(Post hoc ergo propter hoc)〉の論理上誤謬に陥ることを顧みず。これ予の是認すること能わざる所なり」という主張もまちがっていない。当時の統計がどこまで麦飯と脚気の減少の相関関係ではなく因果関係を明らかにしているのか、本を読むかぎりでわたしにはよくわからなかったのだけれど、脚気病原菌説に固執して、日露戦争時に麦を送ることを拒んだとされる鴎外や青山胤通が、当時意図的に観察可能な事実を無視して、党派的な利害に基づく行動を取ってきたとは言えないように思う。
現在進行形である事態のただなかにある人にとって、「正しい方法」というものがどこかにあるわけではない。「正しい方法」というのは一切が完結して、歴史的な評価ができるようになってはじめて明らかになるものだろう。
いまの時点から見て、「間違った」認識を持った人が、「間違った」見方に固執して、「正しい」認識を持った人びとを弾圧し、排斥した、と批判するのは、あまり意味のあることではないようにわたしには思える。自然科学の「発見」、医学の「発見」、そうしたものが累々たる失敗と間違いの上に築かれるものであることを考えると、たとえそうであったとしても「あのときこうしていれば脚気患者の多くを救えたのに」という論法で批判することはできないのではないか。
さらに、米糠の効果があきらかになっていった段階で、森林太郎が公式に自分の非を認めなかった、と批判する人もいる。だが、晩年の彼が脚気問題をどのようにとらえていたかはわからない。
この話を始めるときに、鴎外は『舞姫』の主人公に、たとえば漱石の『坊ちゃん』とは似ても似つかない人物を選んだことを書いた。太田豊太郎は、自分の意志や良心を曲げ、母親や友人、日本にいる自分を送り出してくれた人びとなど周囲の期待に沿うことを選ぶが、むしろそれは積極的に自分で選択したというよりも、むしろ避けがたくそちらに追いやられていったとも言える。同時に彼はそうした自分を決して許さない。自分のあえて言うなら「卑怯さ」を、誰よりもよく自覚している人物なのである。そうした主人公を作家生活の非常に早い段階で造型していった鴎外を、わたしはどうしても軍医森林太郎と重ね合わせて見てしまう。
人がある行動を取るとする。だが、その好意はどこまでその人の意思と言えるのだろう。わたしたちが「自分の意志」と考える、そのどこまでが、わたしたち自身の意思なのだろう。だが、いったんなされた行動には、かならず責任がついてまわる。わたしたちは自分が自由な意思決定で選択した〈かのように〉その責任を引き受けるのである。たとえその行動の結果が、自分の当初意図したものとかけ離れたものになったとしても。
失敗したの責任の取り方は、おそらく謝罪することばかりではないように思う。
作家としての鴎外は、やがて小説を否定して、史伝を書くようになる。
そのなかで彼がもっとも力を注いだのは「抽斎」「蘭軒」「霞亭」など徳川時代の考証学者の伝記で、これらの学者は、後世を大きく益するような功績を学問上に立てたわけではなく、花花しい文明を残したのでもなく、もし鴎外が偶然の機会から発掘しなかったら、現在ではまったく埋没してしまったはずの人々です。
しかし鴎外はかえって彼等の平凡な外見と単調な生活のなかに、激しい学問への情熱と、功利をはなれて天分に安んずる真に人間の名にふさわしい高貴な生き方をみとめて、その再現に心血を注ぎました。(中村光夫『日本の近代小説』(岩波新書))
『渋江抽斎』のなかにこんな一節がある。
抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。ただその相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比ではなかった。迥(はるか)にわたくしに優った済勝の具を有していた。
問題は、彼がやったことが現代の知識や道徳や常識に照らし合わせてどうかということではないだろう。鴎外がいったいどのような生き方を理想としていたか。そういうことを考えると、たとえば文人としての鴎外は立派だったが、軍医としての森林太郎は恥ずべき人物であった、などというようなことは言えないように思うのだ。