陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

軍医森林太郎と脚気の話(中)

2008-12-14 22:36:47 | weblog
2.脚気、海軍と陸軍の取り組み

日本の医学はドイツ医学をその範としていた。陸軍もドイツ軍隊をまた手本としていた。だが、海軍だけは当初よりイギリスに学び、イギリス方式を徹底して踏襲していたのだ。海軍省の軍医である高木兼寛もまたイギリスに留学してイギリス医学を身につけて帰国した。当時、学理医学を中心とするドイツ医学ばかりの日本にあって、臨床を重視したイギリスに学んだ高木兼寛はきわめて異質だったのである。

早くから脚気に注目していた高木は、まず脚気の流行状態を調査することから始めた。そうして当時主流だった脚気伝染病説に対して、暑さや湿気との相関関係は見られないことなどから、原因は食物に絞ることができると結論づけたのである。脚気は「炭素に対する窒素分が不足しているのではないか」という仮説を立て、調査を続けた。つまり、窒素というのはおもにタンパク質のなかにだけ含まれているから、炭水化物に対するタンパク質の割合を増やすことを解決策としたのである。

ところがこのような結論に達したからといって、即座に兵食を改善することは容易なことではない。まず〈金給制〉から〈現物支給制〉に改めなくてはならない。だが、このことは大きな反対に遭うことになった。それでも高木はさまざまな機会を通じて上申をつづけ、パンや肉類を含む〈欧州風食卓〉の試験的導入に成功する。理論はともかく、パン・肉の現品支給によって、脚気は現実的に減少していったのだ。

一方、陸軍の方はどうだったのか。実質的な陸軍の脚気対策の責任者であった軍医本部次長石黒忠のり(直の下に心)は、海軍の兵食改善路線に対して『脚気談』を著し、名前を挙げて高木兼寛を批判する。幕末以来日本人の肉食は増える一方なのに、脚気にかかる者は維新以前と比べると何倍も増えているではないか。地方より東京のほうが肉食する人が多いのに、東京の方に脚気が多いのはなぜか……。

そうして陸軍は、兵食の研究をさせるために、森林太郎をドイツに派遣したのである。その彼が兵食に関する研究の成果をはじめてまとめたのが「日本兵食論大意」という論文だった。
「世人の西洋食を国内に普及せしめんと希うは何故ぞや。けだし〈米を主としたる食は人民の心力及び体力を疲弊せしむる〉との思想より出でたること必然なり。かつて我が邦に在りしドイツ人ウェルニッヒの書に曰く。〈日本人は体格薄弱にして発育充分ならず。これその古来慣用する所の粗食によって然るものなり〉と。その他この種の説をなす者少なからず」
と書いて。その後に括弧を付して、用心深く
(米食と脚気の関係有無は、余敢えて説かず)
と記した。
 そして、その後さらに、
「余は東西人民の食を知る者なり。ドイツに来たりしよりは、ただ(※帝に口)に常人とその食を共にしたるのみならず、また野営演習の間、兵士とその糧を分かてり。また来責(ライプチヒ)大学の試験場(実験室)にては、食物に関する種々の試験をなしたり。余は以上述べる所の実験と、我が師プロフェッソル・フランツ・ホフマン氏及び他の欧州諸大家の論説に基づき、前記の説を排斥し、〈米を主としたる日本食はその味よろしきを得るときは、人体を養い、心力及び体力をして活発ならしむること、毫も西洋食と異なることなし〉と公言することを得るなり」
と書いた。
(板倉聖宣『模倣の時代(上・下)』(仮説社))

そうして林太郎は脚気の原因を病原菌に求めている。

それと軌を一にするかのように、明治十八年、日本では「脚気菌」が発見されたのである。
「発見」したのはドイツでコッホの高弟レフレルについて細菌学を学んだのち帰国した緒方正規である。緒方は間もなく東大医学部教授となって、日本で最初の細菌学の教授になったのである。ところが緒方の発見した「脚気菌」を追試して確かめることができなかった。

これを批判したのが北里柴三郎である。

(この項つづく)