4.日清戦争始まる
日本の軍隊における脚気は、明治二十五年ごろにはほとんど絶滅状態になっていた。大阪鎮台に始まった麦飯は、明治二十四年までに全師団に拡がり、麦飯の採用と脚気の激減の相関関係は明らかであるように思えた。ところが陸軍軍医本部の人びとは、麦飯が脚気に効くという学理があきらかでないことを理由に、この脚気患者の激減も、まったくの偶然であるとみなしていたのだ。
平時であれば、たとえ議論が平行線をたどっていてもかまわない。だが、明治二十七年、日清戦争が始まる。そうなると、兵食の支給は各師団ごとということではなく、大本営の命令に従うことになるのだ。大本営の会議では兵食をどうするか問題になった。陸軍医務局長の石黒忠なお(※直の下に心)は学理的な根拠がないことを理由に、麦飯を送ることに反対する。そうして、その理論的裏付けとなったのが陸軍医学校長であった森林太郎の研究の成果だったのである。
明治二十一年、ドイツから帰ってきた森林太郎は「非日本食はまさにその根拠を失わんとす」と講演をおこなう(のちにこの講演をもとに『非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス』という著書を発表する。これが彼の初の著作となった)。
そのなかで、林太郎は食物は蛋白質・脂肪・澱粉類等からなることを説明しながら、日本の食糧問題に応用し、かつてドイツ留学時代にまとめた〈日本の兵食は米を減じ魚獣の肉を増〉せば栄養学的に問題ない、という立場を改め、従来からの日本食こそ、日本人の健康にはふさわしい、と、積極的に擁護する側に回ったのだった。以降、森林太郎は、兵食を洋式にすることはもちろん、麦飯にすることにも強い反対を貫くようになる。
そうして日清戦争での兵食は白米だけを輸送することになったのだが、その結果はどうだったのだろう。『模倣の時代(下)』には明治四十年陸軍省医務局が報告した『明治二十七八年陸軍衛生事蹟』が引用してあるのだが、それによると、陸軍の脚気患者数は41,431名、脚気による死者の数は4,064名。戦死・戦傷死者数が453名であるから、実際に戦争によって死亡した9倍近い兵士が脚気によって亡くなったのである。
だが、陸軍軍医部の中心にいた人びとは、学理的に根拠のない麦飯の効用を認めず、「戦時脚気の恐ろしさ」を再認識したに留まったのだった。
(今日は日露戦争まで話がすすまなかった…。たぶんあと二回で終わるはず)
日本の軍隊における脚気は、明治二十五年ごろにはほとんど絶滅状態になっていた。大阪鎮台に始まった麦飯は、明治二十四年までに全師団に拡がり、麦飯の採用と脚気の激減の相関関係は明らかであるように思えた。ところが陸軍軍医本部の人びとは、麦飯が脚気に効くという学理があきらかでないことを理由に、この脚気患者の激減も、まったくの偶然であるとみなしていたのだ。
平時であれば、たとえ議論が平行線をたどっていてもかまわない。だが、明治二十七年、日清戦争が始まる。そうなると、兵食の支給は各師団ごとということではなく、大本営の命令に従うことになるのだ。大本営の会議では兵食をどうするか問題になった。陸軍医務局長の石黒忠なお(※直の下に心)は学理的な根拠がないことを理由に、麦飯を送ることに反対する。そうして、その理論的裏付けとなったのが陸軍医学校長であった森林太郎の研究の成果だったのである。
明治二十一年、ドイツから帰ってきた森林太郎は「非日本食はまさにその根拠を失わんとす」と講演をおこなう(のちにこの講演をもとに『非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス』という著書を発表する。これが彼の初の著作となった)。
そのなかで、林太郎は食物は蛋白質・脂肪・澱粉類等からなることを説明しながら、日本の食糧問題に応用し、かつてドイツ留学時代にまとめた〈日本の兵食は米を減じ魚獣の肉を増〉せば栄養学的に問題ない、という立場を改め、従来からの日本食こそ、日本人の健康にはふさわしい、と、積極的に擁護する側に回ったのだった。以降、森林太郎は、兵食を洋式にすることはもちろん、麦飯にすることにも強い反対を貫くようになる。
そうして日清戦争での兵食は白米だけを輸送することになったのだが、その結果はどうだったのだろう。『模倣の時代(下)』には明治四十年陸軍省医務局が報告した『明治二十七八年陸軍衛生事蹟』が引用してあるのだが、それによると、陸軍の脚気患者数は41,431名、脚気による死者の数は4,064名。戦死・戦傷死者数が453名であるから、実際に戦争によって死亡した9倍近い兵士が脚気によって亡くなったのである。
だが、陸軍軍医部の中心にいた人びとは、学理的に根拠のない麦飯の効用を認めず、「戦時脚気の恐ろしさ」を再認識したに留まったのだった。
(今日は日露戦争まで話がすすまなかった…。たぶんあと二回で終わるはず)
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