陰陽師的日常

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軍医森林太郎と脚気の話(前編)

2008-12-12 23:14:06 | 
ここで森鴎外というか、軍医森林太郎と脚気問題について、簡単に見ておきたい。ここでおもな典拠としているのは板倉聖宣『模倣の時代(上・下)』(仮説社)である。

そもそも脚気というのは、ビタミンB1の欠乏によって起こる病気で、主として白米を主食とする地域に見られる病気である。日本では特に江戸中期、元禄のころから江戸の町で流行した。そのころから江戸ではそれまでの玄米食から白米食へと移り変わっていったのだ。

明治期になると、今度は軍隊で多発するようになった。貧しい農家や漁村の次男、三男が徴兵制で軍隊に入る。彼らにとって入隊する魅力は、白米をお腹一杯食べることができる、というものだった。やがて脚気になる。まず足がむくみ、息切れがするようになり、やがて心不全を起こして死に至る。1875年の陸軍の報告書によると、軍隊では百人中二十六人が脚気になり、死亡率は陸軍で22パーセント、海軍でも5パーセントだったという。脚気の蔓延は軍隊にとって、重大な問題だった。

いまのわたしたちは「脚気」というのがどういう病気なのか、何が原因によって発病するのか、どう治療していけばよいかの知識がある。だが、明治期には「どのような症状を脚気と呼ぶのか」という症状の定義から始めなければならなかった。

加えて、当時の日本は、ドイツ医学に学びつつ、医療体制を近代化しようとしているところだった。ドイツの医学者コッホに始まる細菌学などが最先端にして主流だったのだ。ところが「脚気」というのはヨーロッパにはない病気だった。当時の陸海軍は外国人教師を雇って軍医の養成や病院での治療指導に当たらせていたが、彼らも欧米諸国には見られない病気に、まったく知識がなかった。つまり、この病気に関しては、日本人みずからが、病気の原因を探り、治療と予防の方法を確立しなければならなかったのだ。

一方、江戸時代より漢方医たちは米食を避け、麦と小豆が脚気に効く、という知識は持っていたらしい。ところがなぜ米食が悪く、小豆や麦がいいのか、漢方医にも説明はできなかった。それに対し、西洋医学を修めた人びとは、〈理論こそ西洋医学のすぐれていることの証〉と考えていたために、理由もなく米食を禁じて小豆と麦に切り替えるわけにはいかなかったようだ。

森林太郎が帝大医学部を卒業したのはちょうどそんな時期だったのである。

さて、大学を卒業した林太郎は、ドイツに留学する。「軍隊衛生学、ことに兵食の事について専ら調査するために留学せしめられた」と、林太郎の上司であり軍医監であった石黒忠のり(直の下に心)は回想している。

当時、海軍では高木兼寛(かねひろ)が兵食改善による脚気予防策を主張していた。
高木は〈脚気の原因を探るためには、脚気の発生状況と衣食住との関係を調べてみる必要がある〉との観点から、調査を進めていった。海軍ではどの階層の人間が脚気になりやすいのか。囚人がもっとも多く、水兵がそれに次いで多い、下士官になると比較的少なくなり、将校になるといない。これは食料に起因するのではないか、と考えたのである。

当時の海軍は、陸軍とは異なって、食料は現物支給ではなく一日十八銭を支給していた。もちろん各自がばらばらに食料を買い込んでいたわけではないが、一日十八銭の食費をできるだけ節約して、余った分を水兵に還元するということが行われていた。一方で、将校たちは、自腹を切って一日十八銭以上の食事を採っていた。その結果、将校と水兵のあいだでは食事はまるでちがっていたのだ。

(この話は明日もつづく)


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