4.鏡とナルシシズム
鏡がまだなかったころ、人は自分の顔を見たことがなかったのだろうか。
「ドラえもん」のなかに、自分の顔に嫌気がさしたのび太君が「もしもボックス」で鏡の世界を作り出してしまう、というエピソードがある。
その世界では、だれもが鏡を見たことがなく、自分の顔を知らない。その世界にドラえもんが鏡を持ち込んだものだから、鏡を初めて見たしずかちゃんは「このかわいい女の子はだれ?」と言うし、ジャイアンは「ゴリラみたいにひどい顔」と言い出す。
だが、実際には、たとえ鏡がなくても、水に映った姿などを見て、鏡が一般的ではなかった時代でも、人々は自分の顔は知っていただろう。
ギリシャ神話には有名なナルキッソスの話がある。泉の水を飲もうとして水面に映った自分の姿に焦がれて死んでしまうのだ。
自分だけの世界から出ることができない者は滅びるしかないのである。
ところで、こういう問いにどういう意味があるのかわからないのだが、ともかく「芸能人のだれかに似ていると言われることがありますか」という質問がある。
いま仮にA君がその質問に「福山雅治」と答えたとする。
B君が「次長課長の河本準一」と答えたとする。
どちらもたいして似ていないことにかけては五十歩百歩だ。だが、「似てないクセに、フン」と言われるのはA君の方だ。
あるいは「わたしみたいにカワイイ子とつきあえる男の子はラッキーだと思わない?」と臆面もなく言える女の子は、まちがいなく嫌われている。
こんなふうにナルシシズムを露わにする人間は周囲から嫌悪される。
電車のなかでお化粧をする女の子が嫌悪を誘うのは、それがナルシシズムを感じさせる行為、周囲の視線を一切遮断し、自分ひとりの世界にどっぷり浸りこんでいるからなのかもしれない。
それでは、鏡に向かう人はだれでも一種のナルシシストなのだろうか。
林芙美子の『晩菊』では、かつての恋人を迎える五十六歳の女性きんが、鏡の前で身支度をする。
鏡の中に映る自分の姿を見るきんの目は厳しい。可能なかぎり美しく装うために、鏡の中の像を突き放して見ている。鏡に映った自分を他人の目で見つめているのだ。
自分だけの想像の世界に浸っている人は、他人の目を遮断してしまう。他人の視線を遮断して、鏡に見入っている人に、果たして正しく自分の姿を認識することができるのだろうか。その視線の先にあるのは、ありのままの自分の姿などではなく、想像上の自分の姿、言い換えれば、鏡によってイメージを与えられたその人の欲望の姿なのではあるまいか。
(この項つづく)
鏡がまだなかったころ、人は自分の顔を見たことがなかったのだろうか。
「ドラえもん」のなかに、自分の顔に嫌気がさしたのび太君が「もしもボックス」で鏡の世界を作り出してしまう、というエピソードがある。
その世界では、だれもが鏡を見たことがなく、自分の顔を知らない。その世界にドラえもんが鏡を持ち込んだものだから、鏡を初めて見たしずかちゃんは「このかわいい女の子はだれ?」と言うし、ジャイアンは「ゴリラみたいにひどい顔」と言い出す。
だが、実際には、たとえ鏡がなくても、水に映った姿などを見て、鏡が一般的ではなかった時代でも、人々は自分の顔は知っていただろう。
ギリシャ神話には有名なナルキッソスの話がある。泉の水を飲もうとして水面に映った自分の姿に焦がれて死んでしまうのだ。
自分だけの世界から出ることができない者は滅びるしかないのである。
ところで、こういう問いにどういう意味があるのかわからないのだが、ともかく「芸能人のだれかに似ていると言われることがありますか」という質問がある。
いま仮にA君がその質問に「福山雅治」と答えたとする。
B君が「次長課長の河本準一」と答えたとする。
どちらもたいして似ていないことにかけては五十歩百歩だ。だが、「似てないクセに、フン」と言われるのはA君の方だ。
あるいは「わたしみたいにカワイイ子とつきあえる男の子はラッキーだと思わない?」と臆面もなく言える女の子は、まちがいなく嫌われている。
こんなふうにナルシシズムを露わにする人間は周囲から嫌悪される。
電車のなかでお化粧をする女の子が嫌悪を誘うのは、それがナルシシズムを感じさせる行為、周囲の視線を一切遮断し、自分ひとりの世界にどっぷり浸りこんでいるからなのかもしれない。
それでは、鏡に向かう人はだれでも一種のナルシシストなのだろうか。
林芙美子の『晩菊』では、かつての恋人を迎える五十六歳の女性きんが、鏡の前で身支度をする。
別れたあの時よりも若やいでゐなければならない。けつして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆつくりと湯にはいり、帰つて来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になつたガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔が赧くしびれて来た。五十六歳と云ふ女の年齢が胸の中で牙をむいてゐるけれども、きんは女の年なんか、長年の修業でどうにでもごまかしてみせると云つたきびしさで、取つておきのハクライのクリームで冷い顔を拭いた。鏡の中には死人のやうに蒼ずんだ女の老けた顔が大きく眼をみはつてゐる。化粧の途中でふつと自分の顔に厭気がさして来たが、昔はヱハガキにもなつたあでやかな美しい自分の姿が瞼に浮び、きんは膝をまくつて、太股の肌をみつめた。
鏡の中に映る自分の姿を見るきんの目は厳しい。可能なかぎり美しく装うために、鏡の中の像を突き放して見ている。鏡に映った自分を他人の目で見つめているのだ。
自分だけの想像の世界に浸っている人は、他人の目を遮断してしまう。他人の視線を遮断して、鏡に見入っている人に、果たして正しく自分の姿を認識することができるのだろうか。その視線の先にあるのは、ありのままの自分の姿などではなく、想像上の自分の姿、言い換えれば、鏡によってイメージを与えられたその人の欲望の姿なのではあるまいか。
(この項つづく)
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