2.怖い鏡
「鏡」を意味する mirror という英語は、ラテン語 mirari から来ているが、そもそもこの語は「驚く、驚きをもって見つめる」という意味なのである。
admire「賞賛する」も、miracle「奇跡」もそこから派生した語である。
おそらく鏡は登場したときから神秘的なものであり、驚きを持ってみつめられるものだったのだろう。
まずなによりも、ふだん見ることができない顔が映る。
それだけではない。表情が映る。体調が悪ければ顔色が悪いし、内心の喜怒哀楽まで映し出される。そういうところから「真実を映し出す」不思議な力をもつものと考えられても不思議はない。
昔から怪奇小説や奇譚小説にも鏡にまつわるものはいくつもある。
たとえば青空文庫でも読める、中国の怪奇小説を訳した岡本綺堂の作品「霊鏡」では、鏡に骨格から内臓まで全部映ってしまう。
これなどは鏡の「何でも映す」不思議な鏡の力の延長上にあるものだろう。
昨日引いた『百物語』でも、わざわざ何も映っていないことを何度も確かめにいくのはそうやって、禍々しいものを呼びだしていないことを確認するという意味があったのだ。
いっぽう、特別な力を持つ道具が、呪術に用いられたことは想像にかたくない。
古墳から出てくる鏡も装飾品というより、死者を埋葬するときに魔除けの願いをこめられて、ともに埋葬されたのだろう。
当時、どのように呪術の儀式で使われたのかは見つからなかったのだが、芥川龍之介の「妖婆」には、「口寄せ」のために鏡が使われる。
これは語り手がある書店の主人の若い頃の話を聞いた、という体裁をとっている。のちに書店の主人となる人物、新蔵が主人公である。
彼は自分の家に奉公に来ていた若い娘お敏と恋仲になるのだが、ある日そのお敏はいなくなってしまう。その居場所を知りたくて、霊験あらたかと評判の「神下し」のお婆さんのところに行く。ところがその探していたお敏はお婆さんの下で「口寄せ」をやらされていたのである。
お敏は「小さいながら爛々と輝いた鏡の面を見つめていると、いくら気を確かに持とうと思っていても、自然と心が恍惚として」自分を失ってしまう。そうして招き寄せた婆娑羅神にのっとられてしまうのである。
怪奇小説、ホラー小説には鏡はつきものといっていいほどの小道具である。
この「怖さ」は鏡そのものの持つ「映し出す」力からくる「驚き」が根底にあるのだ。
明日はもう少し別の面から「鏡」の怖さを。
「鏡」を意味する mirror という英語は、ラテン語 mirari から来ているが、そもそもこの語は「驚く、驚きをもって見つめる」という意味なのである。
admire「賞賛する」も、miracle「奇跡」もそこから派生した語である。
おそらく鏡は登場したときから神秘的なものであり、驚きを持ってみつめられるものだったのだろう。
まずなによりも、ふだん見ることができない顔が映る。
それだけではない。表情が映る。体調が悪ければ顔色が悪いし、内心の喜怒哀楽まで映し出される。そういうところから「真実を映し出す」不思議な力をもつものと考えられても不思議はない。
昔から怪奇小説や奇譚小説にも鏡にまつわるものはいくつもある。
たとえば青空文庫でも読める、中国の怪奇小説を訳した岡本綺堂の作品「霊鏡」では、鏡に骨格から内臓まで全部映ってしまう。
これなどは鏡の「何でも映す」不思議な鏡の力の延長上にあるものだろう。
昨日引いた『百物語』でも、わざわざ何も映っていないことを何度も確かめにいくのはそうやって、禍々しいものを呼びだしていないことを確認するという意味があったのだ。
いっぽう、特別な力を持つ道具が、呪術に用いられたことは想像にかたくない。
古墳から出てくる鏡も装飾品というより、死者を埋葬するときに魔除けの願いをこめられて、ともに埋葬されたのだろう。
当時、どのように呪術の儀式で使われたのかは見つからなかったのだが、芥川龍之介の「妖婆」には、「口寄せ」のために鏡が使われる。
これは語り手がある書店の主人の若い頃の話を聞いた、という体裁をとっている。のちに書店の主人となる人物、新蔵が主人公である。
彼は自分の家に奉公に来ていた若い娘お敏と恋仲になるのだが、ある日そのお敏はいなくなってしまう。その居場所を知りたくて、霊験あらたかと評判の「神下し」のお婆さんのところに行く。ところがその探していたお敏はお婆さんの下で「口寄せ」をやらされていたのである。
お島婆さんはいざ神を下すとなると、あろう事かお敏を湯巻一つにして、両手を後へ括り上げた上、髪さえ根から引きほどいて、電燈を消したあの部屋のまん中に、北へ向って坐らせるのだそうです。それから自分も裸のまま、左の手には裸蝋燭をともし、右の手には鏡を執って、お敏の前へ立ちはだかりながら、口の内に秘密の呪文を念じて、鏡を相手につきつけつきつけ、一心不乱に祈念をこめる――これだけでも普通の女なら、気を失うのに違いありませんが、その内に追々呪文の声が高くなって来ると、あの婆は鏡を楯にしながら、少しずつじりじり詰めよせて、しまいには、その鏡に気圧されるのか、両手の利かないお敏の体が仰向けに畳へ倒れるまで、手をゆるめずに責めるのだと云う事です。
しかもこうして倒してしまった上で、あの婆はまるで屍骸の肉を食う爬虫類のように這い寄りながら、お敏の胸の上へのしかかって、裸蝋燭の光が落ちる気味の悪い鏡の中を、下からまともにいつまでも覗かせるのだと云うじゃありませんか。するとほどなくあの婆娑羅の神が、まるで古沼の底から立つ瘴気のように、音もなく暗の中へ忍んで来て、そっと女の体へ乗移るのでしょう。お敏は次第に眼が据って、手足をぴくぴく引き攣らせると、もうあの婆が口忙しく畳みかける問に応じて、息もつかずに、秘密の答を饒舌り続けると云う事です。
お敏は「小さいながら爛々と輝いた鏡の面を見つめていると、いくら気を確かに持とうと思っていても、自然と心が恍惚として」自分を失ってしまう。そうして招き寄せた婆娑羅神にのっとられてしまうのである。
怪奇小説、ホラー小説には鏡はつきものといっていいほどの小道具である。
この「怖さ」は鏡そのものの持つ「映し出す」力からくる「驚き」が根底にあるのだ。
明日はもう少し別の面から「鏡」の怖さを。