陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

鏡よ、鏡 その5.

2007-05-23 22:20:15 | 
5.鏡が映し出すもの

谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』はもともと新聞の連載小説で、現在でも岩波文庫には、新聞連載時そのままの小出楢重の挿絵が載っている。その挿絵の第一枚目が、鏡に向かって髪を結っている、向こう向きの女性の姿が描かれている。

身だしなみをしている女性が美佐子、その後ろ姿を見ているのが夫の要である。
 座ぶとんを二枚腹の下へ敷いて畳の上に頬杖をついていた要は、着飾った妻の化粧のにおいが身近にただようのを感じると、それを避けるようなふうにかすかに顔をうしろへ引きながら、彼女の姿を、というよりも衣裳の好みを、なるべく視線を合わせないようにしてながめた。彼は妻がどんな着物を選択したか、その工合で自分の気持ちも定まるだろうと思ったのだが、あいにくなことにはこのごろ妻の持ち物や衣類などに注意したことがないのだから、――ずいぶん衣裳道楽の方で、月々なんのかのとこしらえるらしいのだけれども、いつも相談にあずかったこともなければ、何を買ったか気をつけたこともないのだから、――今日の装いも、ただ花やかな、ある一人の当世風の奥様という感じよりほかは何とも判断の下しようもなかった。……

 美佐子はいつのまにかマニキュールの道具を出して、膝の上でセッセと爪を磨きながら、首はまっすぐに、夫の顔からわざと、一、二尺上の方の空間に目を据えていた。…

 要は妻がはいったあとの風呂へつかって、湯上がりの肌へ西洋浴衣(バスローブ)を引っかけながら十分ばかりで戻って来たが、美佐子はその時もぼんやり空を見張ったまま機械的に爪をこすっていた。彼女は縁側に立ちながら手鏡で髪をさばいている夫の方へは眼をやらずに、三角に切られた左の拇指の爪の、ぴかぴか光る尖端を間近く鼻先へ寄せながら言った。


美佐子の父親から文楽を見に来るように誘われて、出かけるとも取りやめるとも決心がつかず、ずるずると決定を先送りしている要ととりあえず出かけられる装いだけはしておこうとしている美佐子の場面である。

ここでふたりは一緒にいるのだが、「なるべく視線を合わせないようにして」いる。というのも、「要にとって女というものは神であるか玩具であるかのいずれかであって、妻との折り合いがうまく行かないのは、彼から見ると、妻がそれらのいずれにも属していないからだった」という理由で、要はなんとか妻を心理的にも社会的にも傷つけずに別れようと考えている。その妻にも阿曾という恋人がいる。

わたしたちは対面するとき、相手の表情から相手の眼に自分がどう映っているか、かなりのところまで知ることができる。そこに鏡がなくても、自分の顔に何かついていたら、相手の顔を見ただけでわかるし、相手が気遣わしげな顔をしていれば、自分の顔色が悪いのを知ることができる。つまり、人は自分を映し出す鏡でもあるのだ。
向かい合うふたりは、お互いがお互いの鏡となる。

要がここで鏡を使っているのは、美佐子の様子をそれとなくうかがうためである。正面から向き合うと、自分が相手を見ていることが相手にわかる。自分の目に相手がどう映っているかも相手にわかってしまう。だから正面から向き合わない。
美佐子の側もそれを知りたくないので、向かい合っても「夫の顔からわざと、一、二尺上の方の空間に目を据えてい」る。

向かい合わないふたりには、それぞれに鏡が必要である。
ここで鏡が映し出すのは、このふたりの関係でもあるのだ。

(この項つづく)

(※まだ片手でポチポチ打ってます。時間がかかってしょうがないっす(泣))

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