陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

もういちど、空気を読む話

2007-05-26 22:44:04 | weblog
以前、「空気を読む話」としてこんなログを書いた。
ここで言いたかったのは、いわゆる「空気を読む」ということが求められるようになったのは、別に目新しいことなどではない、ということだった。
どんな場でも、そこにはルールがある。はっきり明文化されておらず、微妙に変わっていきながら、みんながそれに従ってプレイしているルールというものがある、「空気」という言葉で呼ばれているのはそのルールなのだ、ということだった。

ところで、先日こんなコラムを読んだ。そのうちリンクが切れるだろうから、全文を引用させていただく。
発信箱:KYといわれても

 若者言葉に「KY」という。その意は「空気が読めない」。自己中心の愚かさを指すのか、雰囲気に合わせられない不器用さをなじるのか知らないが、「KY」と耳にささやかれたら「この場の空気を読め」という警告らしい。

 しかし、KYだろうと何だろうと、人間、周囲の空気にのまれず自分を通さねばならぬ時がある。2年以内に制度が始まろうとしている裁判員もそうだ。

 米映画「十二人の怒れる男」(1957年)は殺人事件裁判の12人の陪審員たちの評議を描く。被告はハイティーンの非行少年。父を刺殺したとして第1級殺人罪で起訴された。有罪なら死刑だ。

 「あんなガキ」「何しろ不良だ」と11人は有罪を決め付け、仕事や今夜の大リーグの試合へと心は飛んでいる。

 だが1人が即決に抗し、話し合いを求める。「皆に気を変えろとは言わない。ただ人の生死を5分で決めていいのか」

 陪審制は全員一致が原則だ。「こんな手合いがいて困る」と周囲はぼやき、くってかかるが、彼は屈しない。そして評議が進むにつれ、気づかなかった合理的な疑問が浮かんでくる--。

 仕組みに差異はあるが、重大刑事事件を扱う裁判員にも課題は共通する。思念を尽くした判断や内心の疑念を、周囲の空気と一致しなくてもきちんと表明し、説くことができるか。

 こわもてで大声を上げる必要はない。あの陪審員は名優ヘンリー・フォンダが演じた。帰りたがるヤンキースファンの陪審員にほほ笑み、静かに説く場面がいい。

 「1時間話そう。ゲームは8時だ」(論説室)

この筆者氏が書きたかったのは、

「陪審制では周囲の空気にのまれず自分を通さねばならぬ時がある」

ということらしい。
だが、「自分を通す」、すなわち自分の主張を周囲に聞いてもらい、なおかつ支持してもらうためには、それこそなによりも空気を読まなくてはならない、ということを、この筆者氏はわかっておられるのだろうか、と思ったのだ。

仲間内でだべっているようなときなら、実際には空気など読む必要はない。多少場違いなことを言ってしらけさせようが、「少しは空気読めよ」と少々いやな顔をされようが、それほどたいした問題ではない。
だが、言うべきことがあり、自分の意見に賛同してほしい、周囲を動かしたい、そのためには、この場を支配している見えないルールがいったい何なのかを読みとらなければ賛同者を得ることはむずかしい。

筆者氏は「十二人の怒れる男」に言及しているけれど、ほんとうにこの映画を見たのだろうか。ヘンリー・フォンダ扮する8号陪審員は、最初から確固たる見解があったわけではない。自分に投げかけられる疑問にひとつひとつ答えていくなかで、事件をさまざまなパースペクティヴからとらえなおしていく。この話し合いを通じて、彼自身もさまざまな発見をしていくのだが、同時に周囲を自分の側に巻きこんでいく。
陪審員室の空気を誰よりも読み、そうしてその流れを意識的に変えていっているのは、この8号陪審員なのだ。

「空気を読む」ことはルールを理解し、そのルールにのっとってうまくゲームをすることだ。そうして、ゲームをよりおもしろくするために、わたしたち自身がそのルールを変えられるということを忘れてはならない。

問題があるとしたら、それを必要以上に絶対視し、場に身動きできないほどがっちりと絡め取られてしまうことのほうだ。
ほんとうに「KY」と耳元で囁く人がいるのかどうか知らないが、「空気」を維持することが目的になってしまうのは転倒してしまっている。
その場との関係をどうやって作り上げていくのか、それを決めるのは自分なのだから。

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