その昔、常盤新平の『遠いアメリカ』を読んでいたら、翻訳を始めて間もない主人公の青年が、「ハンバーガーってなんだろう」と悩む場面があった。
英英辞典で調べると、どうやら牛肉を細かく挽いて、それをこねて焼いた物であるらしい。牛肉だから、大変なごちそうのはずなんだが、どうもそういう雰囲気じゃない……。
舞台は戦後間もない頃なのである。
「ティッシュペーパー」にしても、どういうものかわからない。わからない、ということは、つまり、日本にそれに相当するものがないのだ。そういうものをどうやって日本語にしたらいいのだろう……。
その本を読んだのは、まだ英語というと辞書のページを繰って、ふうふういいながら英文解釈をやっていた頃だったから、「ハンバーガーがわからないなんていう時代もあったんだな」ぐらいしか思わなかったのだが、やがて翻訳の勉強を始めるようになって、何よりもむずかしいのが固有名詞だということを知るようになる。
そのころはまだパソコンを使う、ということも一般的ではなく、辞書といえば紙の辞書、建物の描写では建築用語英和辞典、病気の話が出てくれば医学用語英和辞典、と、図書館のレファレンスルームで辞書や専門書を林立させて、ひとつの単語に何日も費やしたものだった。
そうやってちょっと勉強を始めたら、生意気なもので本の誤訳が気にかかってくる。
昔の本でパリ在住のアメリカ人が、自分宛の手紙を「アメリカンエクスプレス」気付にしてくれるように頼む、という場面で、アメリカンエクスプレスのあとに(※)と注が入って「大使館」などと訳注がついているようなのは、あきらかに戦後間もない翻訳と想像がついて、あの中野好夫大先生でもこういうまちがいをしていたのだ、とちょっとホッとしたこともあったし、そのころ出たばかりのミステリで「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」というバンド名を知らない翻訳者が「フランキーはハリウッドへ行く」などとそのまま地の文で訳しているのを見て、ふん、こんなことも知らないのか……と、自分がたまたま知っているだけなのにちょっとした優越感を味わったりしたこともあった。あきらかに詩人のウェルギリウスを指しているのに、「ヴァージル」と英語読みのままに訳してある部分に気がついたこともあったが、そういうわたしが「ゲオルグ」と書いて「ゲオルク」と訂正されたりもしていた。
それが、検索が普及して、調べ物がほんとうに楽になった。
先日のサキでも、"On the Road to Mandalay"と出てきて、これはなんだろう、と思って入力したら、キプリングの詩であることが0.42秒でわかる。たとえ有名な詩であっても、キプリングを知らなければ、何を探したらよいのかもなかなかわからなかったろう。
一方で、たとえば「ピザ」という言葉が対象とするものをわたしたちはすぐに理解できる。昔の本を見ると「西洋風お好み焼き」と訳注がついていたりして、それはそれで楽しいのだが、ずいぶんイメージに差があるように思える。
とはいえ、わたしは子供時代、瀬田貞二訳の『魔女とライオン』を読みながら「こうしのあぶりにく」という日本語に、よだれがでそうになったものだった。
「ローストビーフ」を聞いても、ちっともよだれは出てこないのだが、「こうしのあぶりにく」というと、やはりずっとおいしそうに思える。
やはりちがう言葉をちがうものに移すのだ。「自然に」を心がける一方で、語の緊張感みたいなもは忘れてはいけないのだろう。
英英辞典で調べると、どうやら牛肉を細かく挽いて、それをこねて焼いた物であるらしい。牛肉だから、大変なごちそうのはずなんだが、どうもそういう雰囲気じゃない……。
舞台は戦後間もない頃なのである。
「ティッシュペーパー」にしても、どういうものかわからない。わからない、ということは、つまり、日本にそれに相当するものがないのだ。そういうものをどうやって日本語にしたらいいのだろう……。
その本を読んだのは、まだ英語というと辞書のページを繰って、ふうふういいながら英文解釈をやっていた頃だったから、「ハンバーガーがわからないなんていう時代もあったんだな」ぐらいしか思わなかったのだが、やがて翻訳の勉強を始めるようになって、何よりもむずかしいのが固有名詞だということを知るようになる。
そのころはまだパソコンを使う、ということも一般的ではなく、辞書といえば紙の辞書、建物の描写では建築用語英和辞典、病気の話が出てくれば医学用語英和辞典、と、図書館のレファレンスルームで辞書や専門書を林立させて、ひとつの単語に何日も費やしたものだった。
そうやってちょっと勉強を始めたら、生意気なもので本の誤訳が気にかかってくる。
昔の本でパリ在住のアメリカ人が、自分宛の手紙を「アメリカンエクスプレス」気付にしてくれるように頼む、という場面で、アメリカンエクスプレスのあとに(※)と注が入って「大使館」などと訳注がついているようなのは、あきらかに戦後間もない翻訳と想像がついて、あの中野好夫大先生でもこういうまちがいをしていたのだ、とちょっとホッとしたこともあったし、そのころ出たばかりのミステリで「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」というバンド名を知らない翻訳者が「フランキーはハリウッドへ行く」などとそのまま地の文で訳しているのを見て、ふん、こんなことも知らないのか……と、自分がたまたま知っているだけなのにちょっとした優越感を味わったりしたこともあった。あきらかに詩人のウェルギリウスを指しているのに、「ヴァージル」と英語読みのままに訳してある部分に気がついたこともあったが、そういうわたしが「ゲオルグ」と書いて「ゲオルク」と訂正されたりもしていた。
それが、検索が普及して、調べ物がほんとうに楽になった。
先日のサキでも、"On the Road to Mandalay"と出てきて、これはなんだろう、と思って入力したら、キプリングの詩であることが0.42秒でわかる。たとえ有名な詩であっても、キプリングを知らなければ、何を探したらよいのかもなかなかわからなかったろう。
一方で、たとえば「ピザ」という言葉が対象とするものをわたしたちはすぐに理解できる。昔の本を見ると「西洋風お好み焼き」と訳注がついていたりして、それはそれで楽しいのだが、ずいぶんイメージに差があるように思える。
とはいえ、わたしは子供時代、瀬田貞二訳の『魔女とライオン』を読みながら「こうしのあぶりにく」という日本語に、よだれがでそうになったものだった。
「ローストビーフ」を聞いても、ちっともよだれは出てこないのだが、「こうしのあぶりにく」というと、やはりずっとおいしそうに思える。
やはりちがう言葉をちがうものに移すのだ。「自然に」を心がける一方で、語の緊張感みたいなもは忘れてはいけないのだろう。