「立ち往生した牡牛」~後編~
「牛が出ていきたそうにしてるんだったら」アデラ・ピングスフォードは腹立たしそうに言った。「こんなおしゃべりをしにここまで来たりはしないわよ。わたし、ひとりなのも同然なの。メイドは午後から休みで出かけてしまったし、コックは神経痛が出て寝てるし。学校にいるころだか卒業してからだかに、大きな牛を小さな庭から追い出すやり方を習ったような気もするけど、いまじゃそんなことすっかり忘れてしまったし。そこであなたがお隣にいらっしゃる、牛の絵描きさんだから、お描きになるテーマなんだもの、きっとおおよそのことは知ってらっしゃるにちがいない、って思いだしたの。だから少しお力も貸してくださるだろうって。だけど、わたし、考えちがいをしてたみたいね」
「確かにぼくは毎日乳牛なら描いてるけど」エシュレイはいったんはそう認めた。「でも、迷い牛を駆り集めた経験はないなあ。映画でならそういうシーンを見たことはありますけどね、もちろん。だけど、そういうときにはいつも馬とか、ほかにもいろんな道具をいっぱい使ってましたよ。おまけに映画っていうのは、どこまで本当だか、だれにもわかりゃしませんからねえ」
アデラ・ピングスフォードは無言のまま、先に立って庭へ向かった。ふだんならかなり広い庭なのだろうが、牡牛がそこにいるとなると、なんだか狭苦しく思える。まだらの巨大な牛で、頭から首にかけては赤っぽい茶色、脇腹と全体の後ろから四分の一ぐらいは薄汚い白、毛むくじゃらの耳と、大きな充血した目をしている。この牛とふだんエシュレイが描いている牧場の上品な若い牝牛が似ているところといえば、クルド族の遊牧民の族長と、日本の浮世絵の御茶屋の娘の共通点ほどしかないだろう。
「キクを食べてますね」エシュレイはやっとそう言った。沈黙にたえられなくなったのだ。
「たいした観察力をしてらっしゃるのね」苦々しげにアデラは言った。「なにひとつ見逃さないんでしょうね。実際のところ、いまこの瞬間にお口の中にはキクの花が六つ、あるみたいですわ」
なにごとかなさねばならない必要性はいまや火急のものとなった。エシュレイは一歩か二歩、牛に近寄って手を叩き、「シッ」とか「シュッ」とかいうたぐいの声を出してみた。その声がたとえ牡牛の耳に届いたとしても、その気配は外からはうかがえない。
「もし迷子の雌鶏がうちの庭に来たら、絶対あなたを呼びにやって、脅かしてもらうことにするわ。いまの『シュー』はすばらしかったもの。ところで、もしよろしければあの牡牛の方をお願いできないかしら。いま食べ始めたのは“マドモワゼル・ルイ・ビショー”なの」氷のように冷たい声で落ち着き払って言い添えたときには、光り輝くようなオレンジ色の花が、もぐもぐ動いている巨大な口のなかで噛み砕かれているときだった。
「あなたがキクの種類をたいそう率直に打ちあけてくださったから、お礼にぼくもあれがエアーシア種の牡牛であることを教えてさしあげます」
氷のような落ち着きは崩壊した。アデラ・ピングスフォードが使った言葉に、画家は無意識に牛の方に1メートルほど寄っていった。エシュレイはエンドウの支え棒を引き抜くと、決意をこめて、まだら模様の脇腹めがけて投げつけた。“マドモワゼル・ルイ・ビショー”をすりつぶし、花びらのサラダにする作業を一時的に中断し、しばらくのあいだ牡牛は棒を投げつけてきた男をもの問いたげにじっと見つめていた。アデラも同じくらいの集中力を発揮し、こちらは明らかに敵意をこめて、同じ人物を見つめた。牛が頭を下げることもなく、また脚を動かそうともしないので、エシュレイは思い切って、もう一本、エンドウの支え棒でやり投げをやってみることにした。
牡牛はどうやら即座に、これは行けということなのだ、と悟ったらしい。かつてはキクの花壇だった場所から、最後にぐいっとむしり取ると、大股にトットッと庭を歩いていく。エシュレイはその頭を門の方へ向けようと走り出したが、成功したのはその歩調を歩く速さからドタドタいう小走りに上げさせたことだけだった。物問いたげな気配を見せながらも、躊躇することなく、牡牛は細い縞模様の芝生、寛大な人のみがクローケー場と呼ぶ場所を横切り、開け放したフランス窓から居間へ入っていった。キクやほかにも秋の草花が部屋の花瓶に活けてあったので、牛は食事行為を再開した。それでもやはり、追われるものの気配がその目には浮かんでおり、どうやらその目には敬意を払っておいたほうがよさそうだった。そこでエシュレイは牛の居場所の選択は、妨害することを断念したのである。
「エシュレイさん」アデラは声を震わせている。「わたし、あなたにこのけだものを庭から追い出してくださいってお願いしたのであって、家の中に追い込んでくださいとお願いしたつもりはございません。敷地内のどこかをどうしても選ばなければならないのでしたら、わたしとしては庭の方が居間よりは望ましいですわ」
「牛追いをぼくは専門にしているわけではないんです。ぼくの記憶にまちがいがなければ、最初からそのことはお話しておいたはずですよ」
「もちろんわかってます」アデラは言い返した。「きれいな牝牛のきれいな絵をお描きになるのがあなたにはお似合いのことぐらい。きっと居間でくつろいでいる牡牛のスケッチでもなさりたいんでしょうね」
これにはあたかも虫でさえ向きを変えて立ち向かう、一寸の虫も五分の魂、といわんばかりに、エシュレイは大股で歩き出した。
「どこへいらっしゃるの」アデラは金切り声をあげた。
「道具を取ってきます」
「道具ですって? 投げ縄なんてお使いにならないで。暴れだしたら部屋が痛んでしまうわ」
だが、画家はまっすぐに庭を突っ切っていってしまった。そうしてほんの数分もすると、イーゼルやスケッチ用の椅子、絵の具などを持って戻ってきたのだ。
「あなた、まさか腰を落ちつけてあのけだものの絵でも描こうっていうの、あいつがわたしの居間をめちゃめちゃにしてるっていうのに」アデラはあえいだ。
「あなたがヒントをくださったんですよ」しかるべき場所にカンヴァスを据え付けながら、エシュレイは言った。
「やめてちょうだい、わたし、絶対そんなこと許しません!」アデラは叫んだ。
「どのようなご身分でこのことに口を出されるんでしょうね。あなたの牛だと主張するのには無理がありますよ。たとえ養子縁組をなさったとしてもね」
「ここはわたしの居間で、食べているのはわたしの花だっていうことを、どうやらお忘れのようね」
「あなたもコックの神経痛のことをお忘れのようだ。いまごろ運良くうとうとできているかもしれないのに、あなたが喚くものだから、目を覚ましてしまうかもしれない。ほかの人間を思いやるというのは、われわれのような身分にあるものにとって、従うべき大原則ではないでしょうか」
「この人、どうかしてるわ」アデラはせっぱ詰まった叫び声をあげた。だがそう言ったアデラのほうが、そのあと、どうかしてしまったようだった。花瓶の花と『イズラエル・カリッシュ』のブックカバーを食べ終えた牡牛は、この狭苦しい場所から立ち去るべきかどうか思案しているようすである。エシュレイは牛の落ち着かなげな様子に気がつき、すぐにいそいでバージニア・クリーパーの葉っぱを投げてやって、そこに居座らせようとした。
「こういうとき、ことわざではどういうのでしたっけ。『夕食に草を食べる方がきらいな人のところで立ち往生した牛を食べるよりましだ』なんてことを(※正確には「愛する人のところで夕食に草を食べた方がいい、きらいな人のところで太った牡牛を食べるよりも」)。ぼくたち、どうやらこのことわざを実践するのに必要なものなら、全部そろってるみたいですね」
「わたしは図書館に行って電話を借りて警察を呼んできます」アデラは怒りもあらわにそう言い放つと出ていった。
十分もしないうちに、牡牛は油かすと飼料の甜菜がどこか自分のための牛小屋に用意されているのではないかと思いついたらしく、たいそう警戒しながら居間を出ていきながら、もはや邪魔だてもしなければ、エンドウの支え棒を投げつけもしない人間を、もの問いたげにしげしげと見つめた。それから重々しい音を響かせ、だがあっというまに庭を出ていった。エシュレイは道具を片づけると、牛の例につづき、かくして《雲雀谷荘》は神経痛とコックだけが残された。
この出来事はエシュレイの画家としてのキャリアの転機となった。彼の特筆すべき作品《居間の牡牛 晩秋》はつぎのシーズンのパリのサロンでセンセーションを巻き起こし、成功をおさめたのである。ミュンヘンでも公開されたのち、三つのビーフエキス抽出会社と激しく競り合ったあげくにバイエルンの官庁が購入した。そのときから彼の成功は、もはや一時的なものではない、確固たるものとなり、王立美術院は二年後、彼の大作である《婦人の私室で狼藉をはたらく野生猿》に感謝をこめて特別の場所を用意した。
エシュレイはアデラ・ピングスフォードに新本の『イズラエル・カリッシュ』一冊と、すばらしい花を咲かせる“マダム・アンドレ・ブリュッセ”を二株贈ったが、ほんとうの意味での和解は、ふたりのあいだでは未だ成立していない。
「牛が出ていきたそうにしてるんだったら」アデラ・ピングスフォードは腹立たしそうに言った。「こんなおしゃべりをしにここまで来たりはしないわよ。わたし、ひとりなのも同然なの。メイドは午後から休みで出かけてしまったし、コックは神経痛が出て寝てるし。学校にいるころだか卒業してからだかに、大きな牛を小さな庭から追い出すやり方を習ったような気もするけど、いまじゃそんなことすっかり忘れてしまったし。そこであなたがお隣にいらっしゃる、牛の絵描きさんだから、お描きになるテーマなんだもの、きっとおおよそのことは知ってらっしゃるにちがいない、って思いだしたの。だから少しお力も貸してくださるだろうって。だけど、わたし、考えちがいをしてたみたいね」
「確かにぼくは毎日乳牛なら描いてるけど」エシュレイはいったんはそう認めた。「でも、迷い牛を駆り集めた経験はないなあ。映画でならそういうシーンを見たことはありますけどね、もちろん。だけど、そういうときにはいつも馬とか、ほかにもいろんな道具をいっぱい使ってましたよ。おまけに映画っていうのは、どこまで本当だか、だれにもわかりゃしませんからねえ」
アデラ・ピングスフォードは無言のまま、先に立って庭へ向かった。ふだんならかなり広い庭なのだろうが、牡牛がそこにいるとなると、なんだか狭苦しく思える。まだらの巨大な牛で、頭から首にかけては赤っぽい茶色、脇腹と全体の後ろから四分の一ぐらいは薄汚い白、毛むくじゃらの耳と、大きな充血した目をしている。この牛とふだんエシュレイが描いている牧場の上品な若い牝牛が似ているところといえば、クルド族の遊牧民の族長と、日本の浮世絵の御茶屋の娘の共通点ほどしかないだろう。
「キクを食べてますね」エシュレイはやっとそう言った。沈黙にたえられなくなったのだ。
「たいした観察力をしてらっしゃるのね」苦々しげにアデラは言った。「なにひとつ見逃さないんでしょうね。実際のところ、いまこの瞬間にお口の中にはキクの花が六つ、あるみたいですわ」
なにごとかなさねばならない必要性はいまや火急のものとなった。エシュレイは一歩か二歩、牛に近寄って手を叩き、「シッ」とか「シュッ」とかいうたぐいの声を出してみた。その声がたとえ牡牛の耳に届いたとしても、その気配は外からはうかがえない。
「もし迷子の雌鶏がうちの庭に来たら、絶対あなたを呼びにやって、脅かしてもらうことにするわ。いまの『シュー』はすばらしかったもの。ところで、もしよろしければあの牡牛の方をお願いできないかしら。いま食べ始めたのは“マドモワゼル・ルイ・ビショー”なの」氷のように冷たい声で落ち着き払って言い添えたときには、光り輝くようなオレンジ色の花が、もぐもぐ動いている巨大な口のなかで噛み砕かれているときだった。
「あなたがキクの種類をたいそう率直に打ちあけてくださったから、お礼にぼくもあれがエアーシア種の牡牛であることを教えてさしあげます」
氷のような落ち着きは崩壊した。アデラ・ピングスフォードが使った言葉に、画家は無意識に牛の方に1メートルほど寄っていった。エシュレイはエンドウの支え棒を引き抜くと、決意をこめて、まだら模様の脇腹めがけて投げつけた。“マドモワゼル・ルイ・ビショー”をすりつぶし、花びらのサラダにする作業を一時的に中断し、しばらくのあいだ牡牛は棒を投げつけてきた男をもの問いたげにじっと見つめていた。アデラも同じくらいの集中力を発揮し、こちらは明らかに敵意をこめて、同じ人物を見つめた。牛が頭を下げることもなく、また脚を動かそうともしないので、エシュレイは思い切って、もう一本、エンドウの支え棒でやり投げをやってみることにした。
牡牛はどうやら即座に、これは行けということなのだ、と悟ったらしい。かつてはキクの花壇だった場所から、最後にぐいっとむしり取ると、大股にトットッと庭を歩いていく。エシュレイはその頭を門の方へ向けようと走り出したが、成功したのはその歩調を歩く速さからドタドタいう小走りに上げさせたことだけだった。物問いたげな気配を見せながらも、躊躇することなく、牡牛は細い縞模様の芝生、寛大な人のみがクローケー場と呼ぶ場所を横切り、開け放したフランス窓から居間へ入っていった。キクやほかにも秋の草花が部屋の花瓶に活けてあったので、牛は食事行為を再開した。それでもやはり、追われるものの気配がその目には浮かんでおり、どうやらその目には敬意を払っておいたほうがよさそうだった。そこでエシュレイは牛の居場所の選択は、妨害することを断念したのである。
「エシュレイさん」アデラは声を震わせている。「わたし、あなたにこのけだものを庭から追い出してくださいってお願いしたのであって、家の中に追い込んでくださいとお願いしたつもりはございません。敷地内のどこかをどうしても選ばなければならないのでしたら、わたしとしては庭の方が居間よりは望ましいですわ」
「牛追いをぼくは専門にしているわけではないんです。ぼくの記憶にまちがいがなければ、最初からそのことはお話しておいたはずですよ」
「もちろんわかってます」アデラは言い返した。「きれいな牝牛のきれいな絵をお描きになるのがあなたにはお似合いのことぐらい。きっと居間でくつろいでいる牡牛のスケッチでもなさりたいんでしょうね」
これにはあたかも虫でさえ向きを変えて立ち向かう、一寸の虫も五分の魂、といわんばかりに、エシュレイは大股で歩き出した。
「どこへいらっしゃるの」アデラは金切り声をあげた。
「道具を取ってきます」
「道具ですって? 投げ縄なんてお使いにならないで。暴れだしたら部屋が痛んでしまうわ」
だが、画家はまっすぐに庭を突っ切っていってしまった。そうしてほんの数分もすると、イーゼルやスケッチ用の椅子、絵の具などを持って戻ってきたのだ。
「あなた、まさか腰を落ちつけてあのけだものの絵でも描こうっていうの、あいつがわたしの居間をめちゃめちゃにしてるっていうのに」アデラはあえいだ。
「あなたがヒントをくださったんですよ」しかるべき場所にカンヴァスを据え付けながら、エシュレイは言った。
「やめてちょうだい、わたし、絶対そんなこと許しません!」アデラは叫んだ。
「どのようなご身分でこのことに口を出されるんでしょうね。あなたの牛だと主張するのには無理がありますよ。たとえ養子縁組をなさったとしてもね」
「ここはわたしの居間で、食べているのはわたしの花だっていうことを、どうやらお忘れのようね」
「あなたもコックの神経痛のことをお忘れのようだ。いまごろ運良くうとうとできているかもしれないのに、あなたが喚くものだから、目を覚ましてしまうかもしれない。ほかの人間を思いやるというのは、われわれのような身分にあるものにとって、従うべき大原則ではないでしょうか」
「この人、どうかしてるわ」アデラはせっぱ詰まった叫び声をあげた。だがそう言ったアデラのほうが、そのあと、どうかしてしまったようだった。花瓶の花と『イズラエル・カリッシュ』のブックカバーを食べ終えた牡牛は、この狭苦しい場所から立ち去るべきかどうか思案しているようすである。エシュレイは牛の落ち着かなげな様子に気がつき、すぐにいそいでバージニア・クリーパーの葉っぱを投げてやって、そこに居座らせようとした。
「こういうとき、ことわざではどういうのでしたっけ。『夕食に草を食べる方がきらいな人のところで立ち往生した牛を食べるよりましだ』なんてことを(※正確には「愛する人のところで夕食に草を食べた方がいい、きらいな人のところで太った牡牛を食べるよりも」)。ぼくたち、どうやらこのことわざを実践するのに必要なものなら、全部そろってるみたいですね」
「わたしは図書館に行って電話を借りて警察を呼んできます」アデラは怒りもあらわにそう言い放つと出ていった。
十分もしないうちに、牡牛は油かすと飼料の甜菜がどこか自分のための牛小屋に用意されているのではないかと思いついたらしく、たいそう警戒しながら居間を出ていきながら、もはや邪魔だてもしなければ、エンドウの支え棒を投げつけもしない人間を、もの問いたげにしげしげと見つめた。それから重々しい音を響かせ、だがあっというまに庭を出ていった。エシュレイは道具を片づけると、牛の例につづき、かくして《雲雀谷荘》は神経痛とコックだけが残された。
この出来事はエシュレイの画家としてのキャリアの転機となった。彼の特筆すべき作品《居間の牡牛 晩秋》はつぎのシーズンのパリのサロンでセンセーションを巻き起こし、成功をおさめたのである。ミュンヘンでも公開されたのち、三つのビーフエキス抽出会社と激しく競り合ったあげくにバイエルンの官庁が購入した。そのときから彼の成功は、もはや一時的なものではない、確固たるものとなり、王立美術院は二年後、彼の大作である《婦人の私室で狼藉をはたらく野生猿》に感謝をこめて特別の場所を用意した。
エシュレイはアデラ・ピングスフォードに新本の『イズラエル・カリッシュ』一冊と、すばらしい花を咲かせる“マダム・アンドレ・ブリュッセ”を二株贈ったが、ほんとうの意味での和解は、ふたりのあいだでは未だ成立していない。
The End