陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

鏡よ、鏡 その1.

2007-05-17 22:46:38 | 
鏡よ、鏡 その1.

わたしは鏡に映る自分の顔を見て、これが自分なんだろうか、ちょっとちがうような気がする、と、なんともいえない違和感を覚えたときのことを覚えている。もちろんラカンのいう鏡像段階(六ヶ月から十八ヶ月の幼児が鏡を見て、初めて自分の身体を見る)の記憶ではなく、もうちょっと大きくなってから、おそらく三歳ぐらいにはなっていたのだと思う。おそらくすでに写真などで自分の姿を外から見ていて、そんな写真をもとに、自分のなかでできあがっていた自分のイメージと、鏡に映る姿が微妙にずれていたのだろう。とにかく、そのとき自分はこんな顔をしているのだろうか、と見慣れないものを見るような思いで、しげしげと眺めたのだ。

だが、確かに鏡はそれほど正しくはない。
試しに美容院で、自分の隣にいる美容師さんの顔を鏡のなかで見て、それから自分の眼で見てみると、人によって多少の差はあるが、けっこうなちがいがあるものだ。自分の姿は自分では見ることができないから、「これが自分の顔」と思ってはいるけれど。

鏡によっては、その自分の顔なのに、ちがうように見えることもある。そういうときは恐ろしい。梶井基次郎も『泥濘』のなかでこんなふうに言っている。

 夜晩く鏡を覗くのは時によっては非常に怖ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人の顔のように見えて来たり、眼が疲れて来る故か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽の腫れ面という面そっくりに見えて来たりする。さーっと鏡の中の顔が消えて、あぶり出しのようにまた現われたりする。片方の眼だけが出て来てしばらくの間それに睨まれていることもある。
『泥濘』(青空文庫)

『鏡の国のアリス』は鏡を通って別の世界に行ってしまった。

白雪姫の継母は「鏡よ、鏡、世界で一番美しいのは誰?」と鏡のなかに向かって問いかけた。すると、鏡が答える。
この自分の美しさを鏡で確かめる物語は、ギリシャ神話のナルキッソスが最初だろうか。
ナルキッソスが自分の姿に焦がれたのは、水面に映った水鏡だったのだけれど、古墳や遺跡などからも鏡は出土する。
鏡は大昔から人間とともにあったのだ。

ただ、昔は顔を映し出すための道具というより、一種の呪術の道具であったようだ。鏡に魔力があると考えられていたのだ。
幽霊は鏡に映らないし、岡本綺堂の『百物語』では、逆に、鏡はこんな使われ方をする。
「むかしから世に化け物があるといい、無いという。その議論まちまちで確かに判らない。今夜のような晩は丁度あつらえ向きであるから、これからかの百物語というのを催して、妖怪が出るか出ないか試してみようではないか。」
「それは面白いことでござる。」
 いずれも血気の若侍ばかりであるから、一座の意見すぐに一致して、いよいよ百物語をはじめることになった。まず青い紙で行燈の口をおおい、定めの通りに燈心百すじを入れて五間ほど距れている奥の書院に据えた。そのそばには一面の鏡を置いて、燈心をひと筋ずつ消しにゆくたびに、必ずその鏡のおもてを覗いてみることという約束であった。

わたしが小さい頃は、鏡に布で覆いがかけてあるような家はまだあったけれど、いまはどうだろうか。ともかく、この「鏡に覆い」も、鏡の力が漠然と信じられていた名残であるように思う。

いまは鏡に力がある、というふうには考えられてはないだろうが、それでも「広告は社会を映し出す鏡」「親は子の鏡」など、メタファーとしても日常的なものである。自分のことを「かんがみる」というときの「鑑」、これも鏡のことだ。

この鏡、小説のなかではどんな働きをしているのだろう。
小説のなかでは何を映し出すのだろう。
そういうことを見てみたい。
よかったらしばらくおつきあいください。