陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

火傷と評価

2007-05-25 22:22:41 | weblog
先日火傷をした。

茹でたパスタを流しに置いたざるにあけようと、コンロから鍋を持ち上げた瞬間、鍋の柄が片方、ボクッと折れたのだ。

鍋の柄というのはたいていビスで留まっていて、使っているうちに、どういうわけか緩んできて、グラグラしてくる。だからグラグラが気になったころ、つまり、グラグラではなく、ガクガクしてきたころ、ドライバーでねじをしめていた。それで、このところまたグラグラの幅が広くなってきて、ガクガクまであと三回(笑)ほどの感じではあった。

それが、いきなりボクッときたのは、ビスの方ではなく、プラスティックの柄が、コンロの火で炙られて、劣化していたのだった。2リットルほど入ったお湯プラスパスタの重みで、その劣化した柄が、一気に折れたのである。そこでバシャッと左手はシャワーにしては熱すぎる、先ほどまでグラグラと煮え立った、白濁したパスタのゆで汁を浴びることになったのであった。

火傷は何を置いてもまず冷やすことである。
幸い流しの水道まで、約15センチ。わたしは即座に流水で左手を冷やすことにした。
冷やすこと約十分。そこから出すとひりひりしてひどく痛む。まっ赤になっている。わたしは椅子と『神話と人間』という本を持ってきて、左手を流れ落ちる水道の水で冷やしながら、そこに腰かけて、アフリカ大陸におけるかまきりの信仰について考察された本を読んだ。

さらにそこから二十分ほど。
わたしはお腹がすいてきた。フライパンのなかでは、赤いトマトソースのマグマのなかに、薄いベージュ色のツナと緑のほうれん草が顔を出している。パスタ鍋のなかのスパゲッティは……おそらくうどんのようになっているにちがいない。これは適当に切って冷凍して、そのうちスープか何かで使うことにして、もういちどスパゲティは、こんどは別の鍋で、柄の具合を確かめて茹でることにしよう。
そう考えて、わたしはかまきりが表紙でこっちを見ている本を閉じ、立ち上がったのだった。
外気にふれるとぴりぴりとかなり痛んだので、ワセリンを塗り、フィルムをはる。指を動かすと痛むので、固定するために包帯でぐるぐる巻きにした。とりあえずそうやって応急処置をすませると、食事作りを再開したのである。

翌朝、どうなったか見てみると、全体に赤くてかてかしているなかに、「く」の字のみずぶくれがひとつと、読点のようなみずぶくれがふたつできていた。「く。。」というと、なんだか笑われているような気がしないでもなかったが、とりあえずこれですんだのはめっけもの、というべきであろう。おそらく「く」は、鍋の縁かなにかがあたったものと思われる。

ともかく、二日ほどは、ほかのものが当たったりしないよう、もっぱら防御の意味で包帯を巻いておいた。小指を除けば指先はなんとか動くので、キーボードを打つことはむずかしかったが、それ以外のことは何とかできた。

そうして、その手の状態で近所のスーパーに買い物に行ったのである。
出かける前に必要なものがあったので、開店間もない店だった。まだ野菜コーナーでは、ほうれん草やら小松菜やらを並べているところだった。客より店の従業員の方が多いような店内で買い物をすませ、レジに向かう。

ところがそこで困ったことになった。
その店では買い物のたびにポイントをつけてくれるカードがあって、レジで打ってもらう前にそのカードを出すようになっているのだが、そのカードがサイフからでてこないのだ。
左手でサイフを広げて持てないので、右手でサイフをささえ、左手でカード入れの中から取り出すのだが、それがどうしても出てこない。
「もういいです。そのまま打ってください」と言ったら、レジの人は、
「いいですよ、店、空いてますから、ごゆっくりどうぞ」といってくれたのだった。

そのレジの人はわたしもよく知っていた。
レジのパートは比較的入れ替わりが激しいのだけれど、そういうなかで昔からいる人なのだ。バーコードを読みとらせるにしても、お金の精算にしても、ひとつひとつの動作がひどくもたもたとしていて、全然慣れていく様子がない。その人のレジだけは、ほかの人の倍近くの時間がかかるのだった。実際の時間としてみればわずかであっても、そのもたもたとする仕草を見ているのは苛立たしいものである。少々ほかの列が長くても、たいていのとき、わたしはその人の列を避けるようにしていた。

ところが開店直後だったために、レジにはその人しかいなかったのだ。だから、やむなくそこに並んだのだった。
ふだん、「もたもたしている」とわたしが思っていた人の目の前で、わたしはおっそろしくもたもたとカードを出したのだった。

わたしたちは、さまざまな場面で、さまざまなものに評価を下す。これは良い、これは悪い、おもしろい、おもしろくない、わくわくした、つまらなかった……。
読んだ本について、聴いた音楽について、そんなことばかりではない、言葉を交わした人や、その人の話の内容、あるいはすれちがっただけの人の服装のセンスとか、モノレールの座席のクッションの具合とか、ありとあらゆるものを、半ば無意識のうちに評価を下してしまっている。そうして、それが良きにつけ、悪しきにつけ、極端なものが意識にのぼってくる。

そうして、あるものや人に対して否定的な評価を下すとき、というのは、「下す」という言葉通り、わたしたちは高い位置に立っている。
もたもたとするレジ係を見て「トロいなぁ……」と評価を下すときも、あるいは、エスカレーターの前で立ち止まる人を見て「邪魔だなぁ」と評価を下すときも、最近流行っているらしい、ハイウェストのへろへろしたチュニックを着ている女の子を見て「まるでマタニティドレスみたいだなあ」と評価を下すときも、わたしたちはそうした人より高いところから、見下しているのだ。

だが、自分の立っている位置というのは、決して不動のものではない。
まわりがすべて自分より器用な人のなかでは、自分が誰よりも「トロいやつ」になってしまう。怪我をして、さっさと歩けないときは、エスカレーターにすぐ乗れないかもしれない。ハイウェストのチュニックがとってもオシャレだと信じている若い女の子たちのなかで「へろへろ」だの「マタニティドレス」だのと言うと、「やっぱりおばさん」と目配せされるかもしれない。

もちろん、自分のあらゆる行動には規準があるはずだ。自分がああしたい、こうしたい、ではなくて、「こうすべき」「こうすべきでない」という、善悪の規準を持つことは必要だろう。
それでも、わたしたちはこの規準をもとに、人であろうがものであろうが、意識的・無意識的に判断を下しているし、判断を下す自分は、高い位置に立ってしまっている、ということは、頭の隅に留めておいた方がいい。そうして、自分もまた評価され、判断を下される側でもあるということを忘れないことだ。
自分はいつもいつも最高のコンディションというわけではない。
ああ、自分は傲慢な目で人を見ていたのだな、ということに気がつくことができたのだから、火傷をしたのもいい経験だったのだ。

鍋の柄は、東急ハンズに行ったら売ってるかしら。