陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

鏡よ、鏡 その6.

2007-05-24 22:51:15 | 
6.鏡がたくさん

姿見の前に立つ。自分の全身を見る。やはり不思議な感じはする。これが自分なんだろうか。ふだん、手や足や膝や腕を見ることはできても、統一した自分の身体として見ることができる機会は、鏡の前に立つ以外にはあまりない。

 テレザは自分の身体を通して自分を見つめたいと努めた。そこでしばしば鏡の前に立った。母親がそんなことをしているテレザを見つけることをテレザは恐れたので、鏡をのぞくことは秘められたささやかな興奮という性格を持っていた。
 彼女を鏡に引きつけたのはうぬぼれではなく、自分自身というものを見ることの驚きであった。彼女は身体のメカニズムの計測パネルを見ていることを忘れていた。顔の特徴の中に、彼女自身を認識させる心を見ているようにテレザには思われた。鼻が空気を肺に送る管の終わりにすぎないということを忘れていた。鼻が自分の性格の忠実な表現だと見ていた。
 テレザは自分を長いこと見つめていたが、時折自分の顔の中に母親の特徴が見えて、それがさまたげになった。そこで自分をさらにじっと見つめ、自分の顔の中には自分自身のものだけが残るように、意志の力で母親の人相を見ないようにし、取り除こうと努めた。それがうまくいったときはしばしの陶酔に浸るのであった。心は身体の表面へとあらわれてきて、それはまるで軍隊が甲板の下から勢いよく出てきて、甲板をうめつくし、天に向かって手を振り、歌っているかのようであった。
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳 集英社)


わたしたちは他人が身体を持っていることは知っている。けれども、それとおなじように自分の身体を見ることはできない。鏡の前に立つことで、自分が他人と同じような身体を持つ存在であることを知ることができるのだ。
自分の身体をあらかじめ知っているのではない。ほかの人がいるから、鏡に映っているのが自分であることがわかるのだ。

もしほかに人間がいなかったら、その世界でたったひとりの人間は、鏡に映っているのが自分だとは気がつかないだろう。『存在の耐えられない軽さ』からもう少し引く。ここでアダムとあるのは、あのアダムとイヴのアダム、カレーニンとはテレザの飼っている犬の名前である。
 アダムが《天国》、泉をのぞき込んだとき、自分が見ている者が自分であることをまだ知らなかった。テレザが女の子として鏡の前に立ち、自分の身体を通して自身の心を見ようと努めたことを彼は理解しないであろう。アダムはカレーニンのようであった。テレザはカレーニンを鏡のところへ連れていってよく楽しんだ。カレーニンは自分の姿が分からず、それに向かって信じがたい無関心と放心した様子で対した。

鏡は、遠い昔、ナルキッソスがそうしたように、わたしたちの自分に向かう欲望を呼び起こす。それを知っているから、あまり自分が鏡に向かっているところを人には見られたくない。

その一方で、鏡の前に立つことは、自分を他人の目で見ることでもある。自分の姿を他者のひとりとして見ることもできる。こうやって、わたしたちは自分が「人間のひとり」であることを知るのだ。


ところで「子供は大人の鏡」であるとか、「学校は社会を映し出す鏡」であるといった言い方がある。ここで使われる鏡のメタファーは、人々のありようを映し出すもの、ぐらいの意味で使われているのだろう。

あるいは、ジョン・チーバーの小説、たとえば「とんでもないラジオ」では、このラジオは様々な人の生活を映し出す役割を果たしながら、同時に、表面は平穏で豊かなウェスコット夫妻の内側、決して平穏でもなければ満ち足りてもいない側面を映し出す鏡の役割を果たしている。
そうして、この小説自身がアメリカの中産階級を映し出す鏡でもある。
さらに、アメリカに限らず、ふだん気がつかないわたしたち自身の見栄や欺瞞も映し出す。

わたしたちはあらゆるものを鏡として見ることができるのだ。
ふだんあまりに当たり前で気がつかないものを、鏡を通して見ることで、少しちがう位置から見ることができる。

鏡に映った自分は、左右が入れ替わっているし、ありのままの自分ではない。鏡によって、立つ位置によって、微妙に見え方もちがってくる。だが、そのためにふだん気がつかないものに気がつくこともある。

自分自身が鏡になっていることもある。自分が何を映しているのか、それを知るためには、また別の鏡が必要になる。
二枚の鏡を向かい合わせたときのように、世界には無限の鏡がある。無限の像を映し出している。

(この項終わり)