陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

耳で聴く言葉

2007-05-13 22:50:41 | weblog
このあいだ図書館にいって、CDのコーナーを見ていたら、なぜかジム・ホールのアランフェス協奏曲の隣に森鴎外の「高瀬舟・寒山拾得」の朗読が並んでいた。LPを持っていたけれどいまは再生手段がないジム・ホールと一緒に、ついでのつもりで朗読のCDも一緒に借りることにした。

このあいだ、図書館で朗読のCDを借りてきた。ジム・ホールのアランフェス協奏曲の隣に、なぜかまぎれこんでいたのだ。

朗読のCDは落語や浪曲などと同じコーナーにあるのは知っていたけれど、そちらの棚に足を向けたこともなく、いったいどんなものがあるのかも知らずにいた。前にジム・ホールを借りた人が一緒に借りたのか、それとも朗読を借りようとした人がジャズのCDを何枚も借りたくなって、朗読をあきらめてそのままそこに入れたのか、理由はよくわからないけれど、ひょんなことから借りることになったのだ。

一枚のCDに、鴎外の短編ふたつとそれぞれの縁起の四つの作品を、井川比佐志が朗読しているのだった。
帰ってからまず、『寒山拾得』を聴いてみた。
すぐ、本で読むのと全く印象がちがうのに驚いた。

比較的最近読み返していて、ごく短い作品でもあるし、ほとんど全編、よく知っていると思っていたのだ。ところが

「一体日本で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。」

とか

「そのあわただしい中に、地方長官の威勢の大きいことを味わって、意気揚々としているのである。」

とか、折々にさしはさまれる、ちょうど文楽の黒子のような語り手の姿が、本で読んでいるときよりも、はっきりと存在を感じさせたのである。

『寒山拾得』の朗読時間が22分36秒、最初と最後にへんな尺八の音や鐘のゴーンという音が入っているから、正味で20分強というところだろうか。目で読むとそんなに時間はかからない。どうしても早く読んでしまう。ということは、出来事が起きている部分、たとえば豊干が閭の頭痛を治してやる部分などはウェイトを置いて読むのだけれど、上にも引いた「吉田東伍さん」などの部分は、どうしても読み流してしまっているのだ。
ところが朗読で聴くと、同じペース、同じウェイトをもって語られるのを聴くわけだから、読むだけでは気がつかないところに気づくことになる。

そうしてなによりも、朗読は語り手の声を聴くことになる。
聴いていてつくづく思ったのは、語り手の声というのは、言葉ではない言葉、言葉のかたちを持たない言葉だな、ということだった。
微かに息つぎをする音。
歯擦音の独特な癖。
唇が離れるときの音。
ある語にストレスをかけるときの発声。
文章と文章の「間」。この「間」の、ひときわ意識される短い静寂さえもが、何かを伝える「言葉」なのだった。

どれだけゆっくりと丁寧に読もうとしても、朗読と同じスピードで読むことはできない。むしろ、時間をかけて読めばいいというものでもないような気がする。基本的にわたしの読むペースが早いということもあるのだろうけれど、読むにはあるていどのスピードが必要な気がする。そうして、おそらくその速さは一定のスピードではなく、同じ作品のなかでも、アレグロのところ、モデラートのところ、アンダンテのところ、さまざまに速さを調節しながら読んでいるのだろう。
そうして、朗読を聴く時間というのは、自分が拘束されることになる。その間は自分の勝手にするわけにはいかないのだ。

書かれたものを人の声で聴く。
自分の速さではない速さで聴くことによって、読むだけでは気がつかないものに気がつく。
ほかの人の声で、つまり、語り手のごくひかえめな解釈や理解という薄い衣という言葉ではない言葉を通して伝えられる言葉を聴く。
その声が、自分の内に刻まれ、それまで自分の内になかった言葉が、「ほかの存在」の声で蓄えられる。

何か、すごい経験だった。