先日のこと。
Aさんに会ったら、Bさんがわたしのことを探していたという。Aさんがさっそく「Bさんに連絡してあげる」といって携帯を取り出すので、わたしはてっきりAさんが電話をかけてくれるのだろうと思っていた(わたしはBさんの番号を知らなかった)。
ところがAさんはメールを打ち始めた。短いメールだったので、すぐに打ち終わり、送信も完了したのだが、わたしの方はメールなんかで連絡したら「いつになるかわからないのではないか」と思ったのだ(実際、わたしはパソコンのメールさえ、一日に数回しかチェックしない)。ところがすぐに折り返しメールの着信音が鳴り、Bさんからそちらへいく旨の返信が届いた、と思ったら、Bさんはまもなく現れたのである。実際に電話をかけたのとどれほども変わらない。緊急の用件であればてっきり電話をかけるものだとばかり思っていたわたしは、自分がずいぶんずれているような気がしたのだった。
Bさんと打ち合わせを終えてから、なぜ電話ではなくメールを使うのか、Bさんに聞いてみた。すると、メールの方がお金がかからないからなのだそうだ。なるほど。だが、おもしろいと思ったのはそれに続く言葉だった。
「それにメールだと、あとで見たとき、件名を見ただけで、あのとき何をしたかが思い出せるでしょ」
確かにそれほど複雑なことでなければ、会って何を決めたかも、その件名を見ただけで思い出すことができるだろう。携帯メールを頻繁に使う人にとって、メールは一種の備忘録であり、同時に日常の記録ともなっているはずだ。
昔、家計簿をつけていた母が、「家計簿はお母さんの日記。これを見たらその日、何を食べたか、何をしたかわかるから」と言っていたのを思い出す。改まって日記という体裁をとらなくても、レシートやカードの請求記録、図書館の貸出票など、さまざまなものが、日々の記録となって残っていく。いまに残る大昔の土地の権利書や地租の台帳は、当時の生活を知る重要な手がかりである。
このように文字に残すというのは、空間に出来事をつなぎ留めておく方法である。書きつけておく媒体はさまざまに変わっても、なんであれわたしたちが「書き残す」ことの目的は、これにつきると言ってもいい。
だが、文字を持たない言語というのは地球上に数多く存在する。だが逆に、音声を持たない言葉は存在しない。このことを考えると、声や話されるものである言葉を文字に記すことによって、視覚的な空間のなかに、相手の話を再構成するということは、人間にとって別に当たり前のことでもなんでもないのかもしれない。
文字を持たない人びとにとってのコミュニケーションでは、その話を保存する方法は、聞く側が記憶しておくしかないのだから、おそらくは文字を使うわたしたちとはくらべものにならないほどその話し合いは真剣なものにちがいない。相手の言うことに耳を傾け、重要な箇所は自分も繰り返して口にしながら自分の頭に刻み込むだろう。聞き手は自分の時間をそっくり話し手に譲り渡す時間でもある。
一方、文字を媒介としたコミュニケーションというのは、実にさまざまなものがあるが、共通するのは、声による話を「もの」化して送り手から切り離し、受け手に送り届けられるという点だ。基本的に受け手は送り手の都合に合わせることなく、自分の都合のいい時間にそれを読むことができ、途中で止めることもでき、読み返したり、最後だけ読んだりすることも可能である。それでもそれを理解しようと思えば、つまり「そこに何が書いてあったか」を自分のなかで再構成しようと思えば、途中とばし読みにするにせよ、とにかく最初から最後まで読まざるを得ない。文字の助けを借りることができない情況ほど不自由ではないが、やはり自分の時間を書き手に譲り渡さないわけにはいかない。
だが、読み手はたとえ黙読していようが、どこかに書き手の声を聞いているはずだ。たとえ書き手が名前を持たないものであろうと、新聞記事には新聞記事の「声」があるし、広告には広告の「声」がある。まして書き手を知っていれば、受け取る「声」はそれぞれにちがうはずだ。たとえ受け取るのは液晶画面に浮かび上がる文字であっても、そこから受ける印象は、送り手によってまるでちがうはずだ。わたしたち自身が「もの」を声に戻しているのである。
こう考えるとバラエティ番組に出てくる字幕の性質もはっきりとしてくる。
あれはわたしたちが書かれているものを読むのとは反対に、現在話をしているその人と深く結びついている話をその人から引きはがし、短い文字にまとめることによって「もの」化し、一目でわかる情報として送り届けようとしているのである。
だが、わたしたちは日常でもこういうことを現にしているのではあるまいか。
話している人の話を遮って、「要点は何?」と聞くことによって。ある程度の長さのあるものを読むうちにじれてくるようなとき。
話をすることに対して、書くことは、相手が不在であることが前提となっている。書く行為、書かれたものを読む行為は、相手不在のところで孤独になされる行為である。それでも何かを書こうと思えば相手を想定しなければ書くことはできない。
だが、読むということが「もの」を読むことにとどまる、つまりは単に情報をすくい上げることにとどまってしまえば、わたしたちは書き手の声を聴き取ることができなくなってしまう。それは単に読む能力の低下ばかりを意味するのではない。コミュニケーション能力そのものの低下、オングの言う「一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」も」てなくなってしまうことなのかもしれないのである。
バラエティ番組に出てくる字幕スーパーは、一瞬で情報を伝えてくれるありがたいサインなのだろう。この番組は耳を傾ける必要はないのだというサインである。だからそのサインが出てきたらわたしたちがやるべきこと。リモコンを持ってチャンネルを変えるということだ。もちろんスイッチを切ってもかまわない。
(※ここ数日、体調を崩して寝ていました。やっと今日当たりからぼちぼち復帰することができました。話のあいだが開いてわけがわかんなくなったかと思いますが、また後日サイトにまとめたいと思っています。コメントくださった方、ありがとうございました。訂正、後日やります)
Aさんに会ったら、Bさんがわたしのことを探していたという。Aさんがさっそく「Bさんに連絡してあげる」といって携帯を取り出すので、わたしはてっきりAさんが電話をかけてくれるのだろうと思っていた(わたしはBさんの番号を知らなかった)。
ところがAさんはメールを打ち始めた。短いメールだったので、すぐに打ち終わり、送信も完了したのだが、わたしの方はメールなんかで連絡したら「いつになるかわからないのではないか」と思ったのだ(実際、わたしはパソコンのメールさえ、一日に数回しかチェックしない)。ところがすぐに折り返しメールの着信音が鳴り、Bさんからそちらへいく旨の返信が届いた、と思ったら、Bさんはまもなく現れたのである。実際に電話をかけたのとどれほども変わらない。緊急の用件であればてっきり電話をかけるものだとばかり思っていたわたしは、自分がずいぶんずれているような気がしたのだった。
Bさんと打ち合わせを終えてから、なぜ電話ではなくメールを使うのか、Bさんに聞いてみた。すると、メールの方がお金がかからないからなのだそうだ。なるほど。だが、おもしろいと思ったのはそれに続く言葉だった。
「それにメールだと、あとで見たとき、件名を見ただけで、あのとき何をしたかが思い出せるでしょ」
確かにそれほど複雑なことでなければ、会って何を決めたかも、その件名を見ただけで思い出すことができるだろう。携帯メールを頻繁に使う人にとって、メールは一種の備忘録であり、同時に日常の記録ともなっているはずだ。
昔、家計簿をつけていた母が、「家計簿はお母さんの日記。これを見たらその日、何を食べたか、何をしたかわかるから」と言っていたのを思い出す。改まって日記という体裁をとらなくても、レシートやカードの請求記録、図書館の貸出票など、さまざまなものが、日々の記録となって残っていく。いまに残る大昔の土地の権利書や地租の台帳は、当時の生活を知る重要な手がかりである。
このように文字に残すというのは、空間に出来事をつなぎ留めておく方法である。書きつけておく媒体はさまざまに変わっても、なんであれわたしたちが「書き残す」ことの目的は、これにつきると言ってもいい。
だが、文字を持たない言語というのは地球上に数多く存在する。だが逆に、音声を持たない言葉は存在しない。このことを考えると、声や話されるものである言葉を文字に記すことによって、視覚的な空間のなかに、相手の話を再構成するということは、人間にとって別に当たり前のことでもなんでもないのかもしれない。
文字を持たない人びとにとってのコミュニケーションでは、その話を保存する方法は、聞く側が記憶しておくしかないのだから、おそらくは文字を使うわたしたちとはくらべものにならないほどその話し合いは真剣なものにちがいない。相手の言うことに耳を傾け、重要な箇所は自分も繰り返して口にしながら自分の頭に刻み込むだろう。聞き手は自分の時間をそっくり話し手に譲り渡す時間でもある。
一方、文字を媒介としたコミュニケーションというのは、実にさまざまなものがあるが、共通するのは、声による話を「もの」化して送り手から切り離し、受け手に送り届けられるという点だ。基本的に受け手は送り手の都合に合わせることなく、自分の都合のいい時間にそれを読むことができ、途中で止めることもでき、読み返したり、最後だけ読んだりすることも可能である。それでもそれを理解しようと思えば、つまり「そこに何が書いてあったか」を自分のなかで再構成しようと思えば、途中とばし読みにするにせよ、とにかく最初から最後まで読まざるを得ない。文字の助けを借りることができない情況ほど不自由ではないが、やはり自分の時間を書き手に譲り渡さないわけにはいかない。
だが、読み手はたとえ黙読していようが、どこかに書き手の声を聞いているはずだ。たとえ書き手が名前を持たないものであろうと、新聞記事には新聞記事の「声」があるし、広告には広告の「声」がある。まして書き手を知っていれば、受け取る「声」はそれぞれにちがうはずだ。たとえ受け取るのは液晶画面に浮かび上がる文字であっても、そこから受ける印象は、送り手によってまるでちがうはずだ。わたしたち自身が「もの」を声に戻しているのである。
こう考えるとバラエティ番組に出てくる字幕の性質もはっきりとしてくる。
あれはわたしたちが書かれているものを読むのとは反対に、現在話をしているその人と深く結びついている話をその人から引きはがし、短い文字にまとめることによって「もの」化し、一目でわかる情報として送り届けようとしているのである。
だが、わたしたちは日常でもこういうことを現にしているのではあるまいか。
話している人の話を遮って、「要点は何?」と聞くことによって。ある程度の長さのあるものを読むうちにじれてくるようなとき。
話すためには、もう一人の人間あるいは人びとを相手に話さなければならない。…
なぜなら、どんな現実あるいはどんな空想(された情況)を相手に話していると思うかによって、つまり、どんな反応が返ってくると思うかによって、わたしの言うことは違ってくるからである。だからわたしは、おとなと小さな子どもに対して、まったくおなじメッセージを送るようなことはしない。話すには、話そうとしている相手の精神と、話しはじめるまえに、すでにある意味でコミュニケーションができていなければならない。そうしたコミュニケーションができるのは、〔相手との〕過去の関係をとおしてかもしれないし、また、視線を交わすことによってかもしれない。…あるいは、その他無数にあるやりかたのどれかによってかもしれない(〔そうしたことが可能なのは〕ことばは、ことば以外のものによってもつくられている一つの〔全体〕状況の一様相だからである)。つまり、わたしの発言がかかわりうる他人の精神を、わたしは〔話すまえに〕なんらかのかたちで感じとっていなければならない。人間的なコミュニケーションは、けっして一方向的なものではない。それは応答を要求するだけでなく、あらかじめ予想された応答によって、まさにその形式と内容においてかたちづくられているのである。…
わたしがメッセージをもって他人の精神のうちに入るには、あらかじめその他人の精神のうちになんらかのかたちで入っていなければならない。そしてその他人もまた、わたしの精神のうちに入っていなければならないのである。なにをことばで表現するにせよ、わたしは一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」もっていなければならない。(ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』
桜井直文 他訳 藤原書店 1991)
話をすることに対して、書くことは、相手が不在であることが前提となっている。書く行為、書かれたものを読む行為は、相手不在のところで孤独になされる行為である。それでも何かを書こうと思えば相手を想定しなければ書くことはできない。
だが、読むということが「もの」を読むことにとどまる、つまりは単に情報をすくい上げることにとどまってしまえば、わたしたちは書き手の声を聴き取ることができなくなってしまう。それは単に読む能力の低下ばかりを意味するのではない。コミュニケーション能力そのものの低下、オングの言う「一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」も」てなくなってしまうことなのかもしれないのである。
バラエティ番組に出てくる字幕スーパーは、一瞬で情報を伝えてくれるありがたいサインなのだろう。この番組は耳を傾ける必要はないのだというサインである。だからそのサインが出てきたらわたしたちがやるべきこと。リモコンを持ってチャンネルを変えるということだ。もちろんスイッチを切ってもかまわない。
(※ここ数日、体調を崩して寝ていました。やっと今日当たりからぼちぼち復帰することができました。話のあいだが開いてわけがわかんなくなったかと思いますが、また後日サイトにまとめたいと思っています。コメントくださった方、ありがとうございました。訂正、後日やります)