陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

変わること変わらないこと

2008-10-07 22:56:18 | weblog
時代小説を読んでいると、ときどき、「これは現代人の考え方、少なくとも明治以降の人の考え方だなあ。封建社会に生きた人がこんなふうに自分のことを考えたりはしないだろうなあ」と思うことがある。そんなとき、その時代に生きた人の考え方というのは、どうしたってわからないんだろうなあ、と思う。

ところが『徒然草』の百九十四段は、こんな話なのである。

嘘をいいふらしてだまそうとする人がいたとする。それに対して人はどんな態度を取るものだろうか。
1.その嘘を信じてだまされてしまう人
2.嘘を深く信じて、さらに自分の嘘を付け加えてしまう人
3.なんとも思わず関心を持たない人
4.信用するでもなくしないでもなく、考えこんでしまう人
5.ほんとうではないだろうと思いつつも、人がいっていることだからそうかもしれないとそのままにしてしまう人
6,推測してわかったふりをして、利口そうにうなずいてほほえんでいるが、まるでわかっていない人
7.推理してうそを見破り、「ああ、うそをついている」と思いながらも、そう思う自分の考えに自信のもてない人
8.「かくべつどうってこともない」と手を打って笑う人
9.うそと知っているそぶりをせず、しらないふりをする人
10.うその意図するところをわかって、うそをつくりだした人とおなじ気分で、人をだますことに協力する人

兼好さんは嘘に対する人の態度をこのように分類するのである。
この分析が鋭いというより、いまのわたしたちにもすっかり当てはまってしまうので、そちらの方に驚いてしまう。

こう思ったのはわたしだけではなかったようで、寺田寅彦はこんなことを書いている。
これは「嘘」とは事変るが、アインシュタインの相対性原理がまだ十分に承認されなかった頃、この所論に対する色々な学者の十人十色の態度を分類してみると、この『徒然草』第百九十四段の中の「嘘に対する人々の態度の種々相」とかなりまでぴったり当て嵌まるのは実に面白いと思う。科学の事でさえそうである。いわんや嘘か本当か結局証明の不可能な当世流行何々イズムなどに対する人々の態度には猶更よくあてはまるであろう。読者は試みに例えば、マルキシズムに対する現代各人各様の態度を「あまりに深く信をおこして」以下の数行にあてはめて見るとなかなかの興味があるであろう。ありとあらゆる可能な態度のヴァリアチオンが列挙してあるので、それらの各種の代表者を現代の吾々の周囲から物色するとすぐにそれぞれの標本が見付かる、そうして最後に自分自身がやはりそのうちのどれかのタイプに属することを発見して苦笑する人が多いであろう。

人間には時代と共に移り変わっていく部分と、変わらない部分があるということなんだろうか。

更新情報書きました。
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