陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

禍か福か

2008-10-04 23:07:16 | weblog
事件や事故の報道を見ていると、たまたまその電車に乗り合わせただけの人や、たまたまそこにいあわせただけの人が被害者になったようなケースが少なくない。自分が乗っている電車が同じように脱線したり、とんでもない人物が乗っていたりする可能性もまったくないわけではないのだろうなあ、と改めて思う。

母は何かあると「運がいい」とか「運が悪い」とかいう人だった。幼いときに母親を失ったことを、そういうかたちでしか納得できなかったのだろう、といまならわたしも理解できる。だが、当時は自分の「運の悪さ」をくどくどと愚痴られるとイライラしたし、わたしがなにかうまくこなしたあとで、「あんたは運がいいから」と言われるのも、「わたしだって頑張ったのに」と癪に障った。

おそらくそういうことがあったからだろう、わたしは昔から「運」などというものがあるわけがない、と思っていた。仮にあったとしても、結局、自分の力でどうしようもないのだとしたら、受け入れるしかないではないか。占いなどで先回りして知ったところで、どうせ受け入れるしかないのだったら、「いい」とか「悪い」とか言っても始まらない。

わたしが十代の頃、「会社のお金を使いこんだ」という人の話を聞いたことがある。わたしが知っていたのはその人が高校生だった頃までで、小学生のわたしは、髪を三つ編みにしたお姉さんに、自転車をゆずってもらったように思う。
だが、その人がそういうことになったきっかけは、宝くじに当たったからだったのだ。

当時のわたしからしてみれば、びっくりするような額だったのだが、おそらくは百万かそこらだったのだろう。当たればうれしくなる額ではあっても、人生を左右するほどの額ではなかったはずだった。その人はその当たった宝くじを資金源に親元を離れ、アパートを借りたのだ。それと一緒に、アパートを紹介してくれた不動産屋の人とつきあうようになっていった。ところがその相手がどうもよろしくない、ギャンブルなどに手を出すような人物で、結局お金をずるずると渡すような羽目になったらしい。宝くじの当選金額などしれたもの、あっというまに底をつき、結局会社のお金に手を出すようになったとか。

その人が一時行方不明になったとかで、近所もしばらくざわざわしていた。そんなとき、わたしはその話を聞いたのだろう。当時のわたしは、横領というのは経理などの専門的な知識を必要とする複雑な犯罪なのだろうとばかり思っていて、自分があずかる通帳から勝手にお金を引き出すだけのような粗雑な犯罪も「横領」であることに一番驚いたのだった。

やがて彼女も見つかり、額もそれほど高額ではなかったということで、警察沙汰や新聞沙汰になることもなかった。あの人もそこの家に帰ってくるのだろうか、道で会ったら挨拶してもいいんだろうか、などと考えていたら、一家の方がどこかに引っ越していってしまった。電気メーターの数字を書き込んだ紙が玄関にはさまった空き家の前を通りながら、もしその人が宝くじに当選しなかったらどうなっただろう、と思ったものだった。

宝くじに当選する、というのは、一般に「幸運」と呼ばれるものだ。だが、それが引き金となって不幸に転落したのだとしたら、それは果たして「幸運」と呼べるのだろうか。「禍福は糾える縄の如し」ということわざがあるが、ものごとに「禍」と「福」があるわけではない。出来事はただ起こるだけだ。それを「禍」ととらえるのも福ととらえるのも、移り変わる状況のなかにいる「わたし」に過ぎない。

こう考えてみると、やはり「運」などということを、自分に起こるさまざまな出来事に当てはめたところで、意味がないのではないかと思うのである。

出来事は絶え間なく起こり続ける。何の落ち度もないような人が事故にあったり、殺されてしまったり、理不尽としか思えないようなことが起こったとき、わたしたちは原因をどこかに求める。そのひとつが「運」ということなのだろう。おそらく、それで亡くなった人のためにではなく、何が起こるかわからない自分のこれからのために、その「運」という名の物語を必要とするのだ。

けれども、誰にもどうしようもできないことであれば、それを受け入れていくしかない。「自分は運がいいのだ」という思いこみが、虚空に足を踏み出す勇気を与えてくれるのであれば、それはそれでいいのだろう。だが、どちらかというと、わたしは「運」などというよくわからないものより、わたしを励ましてくれるさまざまな人の言葉や、書かれたもの、そうしてどれだけささやかではあっても、自分がやったことを支えとしたいと思うのだ。

わたしの祖母の短すぎる一生は、確かに不運なものだったろう。いまならば、結核で死ぬこともなかっただろう。それでも娘を持ち、幼い娘に心を残しながら逝ったとしても、その娘がさらに娘を持ち、孫となる人間が会ったこともないその人のことを、どこかで身近に感じている、それはかならずしも不運とばかりはいえないのではないか、と思うのだ。まあその孫がこのていたらくでは、やはり不運ということになるのかもしれないけれど。